ラーメンの鬼と呼ばれた故佐野実さんは、ラーメン博物館のイベントで「至高のラーメン」を提供したことがある。確か、価格は3000円だったと思う。職人が本気を出せば、そこまでハイクオリティのものを提供できる。でも、佐野さんが通常の営業でそれをすることはなかった。その背景は、一つには、ニーズがないから、もう一つには、素材の確保が難しかったからと予想できる。
一食で3000円は、寿司や天ぷらなら二流店でも普通だし、とんかつでもハイエンドなら普通の価格である。でも、ラーメンではとても特別だ。
ニーズがないのは、消費者の懐具合よりも、食べ物としての性格によると考えられる。特にラーメンのスープは様々な素材の混合物なので、素材にこだわっても、食べる側がそれを理解できないということだと思う。実際に食べ比べたことはないのだが、だしを取る昆布を日高から羅臼に変更しても、僕を含めてほとんどの人が気がつかないのではないか。他にも、豚骨にこだわっても、煮干しにこだわっても、その違いを理解できる人間は少ないと想像する。
ラーメンは雑多な原材料を組み合わせた食べ物なので、寿司、てんぷら、あるいはとんかつに比較すると、複雑で素材の良さがわかりにくいのだ。
#とんかつで言えば、林SPFのような、味的に全く凡庸な肉のとんかつ店が食べログで上位に並んでいるあたりから、単純な豚肉の味ですら、わからない人間が多いのだと思う。
ラーメンの場合、麺とチャーシューは単一か、それに近い食品なので、比較がスープより簡単である。この2においては、麺は近年大きく進歩した。麺を評価するポイントは食感、雑味(かんすい臭さなど)、コシ、スープの絡みあたりである。食感とコシは原料と茹で方、雑味とスープの絡みは素材と取り扱いの要素が大きい。また、チャーシューは肉の質と味付けのみである。豚は完全な経済動物なので、良い肉は高くなる。背後に事情がない限り、安くて美味しいチャーシューは存在しない。
#もちろん、高くてまずいチャーシューは存在する。
ラーメンの評価で現在一番重要な要素はスープである。スープが差別化の最大のポイントであり、ラーメンの評価の多くを支配する。そして佐野さんですら、できるのにやらなかったのが、スープの追求である。それは悪い言葉で表現するなら、佐野さんも「ラーメンならこんなもの」と見切ったということだ。
では、食べる側としてはどうなのか。評価する側はどうなのか。僕の場合、食べたラーメンを全て10段階に数値化して評価してきたが、このうち、6点以上を雑誌などのメディアで推薦する目安としてきた。この6点が、僕の中でのハードルである。このハードルは今も昔も同じだが、当然6点以上の店にも評価の上下はあって、それはブログで明示している。
さて、ここ数年、日本で一番有名なラーメン評論家である石神秀幸さんは、花月嵐の独自メニューの開発に手を貸している。花月嵐の歴史は古いし、僕も数回食べたことがあるが、僕の中では何度食べても、6点以上となることはなかった。
花月嵐の評価(2006年08月11日)
http://buu.blog.jp/archives/50249420.html
らあめん花月 嵐 池袋店の評価(2013年04月11日)
http://buu.blog.jp/archives/51390847.html
では、石神さんが、花月嵐と、他の優良店との差異に気が付かないのか、となれば、いくら何でもそんなことはないだろう。ただ、彼の中では、「この程度のクオリティなら石神の名前を汚すことはない」という判断があったはずである。つまり、花月嵐のクオリティよりも下に、石神さんは「うまい」のハードルを設定したということである。「じゃぁ、花月嵐よりも美味しい店はいくつあるんだ」とか「新宿武蔵とどちらがうまいんだ」「早稲田のわたなべと比較するとどうなんだ」という質問を石神さんに投げかけるのは、大人げない。でも、僕なら、多分20や30軒の店は、すぐに挙げることができる。では、その情報にはどれだけの意味があるのだろうか。
例えば阿佐ヶ谷のチキュウは花月嵐よりも美味しい店であると断言できる。しかし、その違いを理解できる人は、日本人の何%存在するのだろうか?僕はその割合には興味がないのだが、プロデュースする側なら考えざるを得ない。そして、その数値が商売にあたって、あるいは石神というブランドの維持にあたって、無視できるほどに小さいと見切ったことになる。
店も、プロデューサーも、評論家も、「一般の生活者がどこまでわかるのか」については考慮する必要がある。羅臼と日高の昆布について、ラーメンの材料としての違いをきちんと判断できる人間が1000人に一人なら、そういう人が言及する「昆布の違いによる味の優劣」の情報は、1000人に一人しか理解できないのだ。「『花月嵐の、石神プロデュースのラーメン以上に美味しいラーメン』なら、どのラーメンを食べても美味しく食べることができる人」にとっては、好みこそあれ、その領域にあるラーメンを区別することには何の意味もない。
印象と過去の花月嵐で食べた経験からすれば、僕が石神プロデュースの花月嵐のラーメンに満足する可能性はほとんどゼロだったのだが、念のため、食べてみた。評価はこんな感じである。
らあめん花月 嵐 成田国際空港店 「THE淡麗醤油ラーメン石神SPECIAL'S」
http://buu.blog.jp/archives/51558496.html
ここでちょっと注釈すると、僕が食べたのは朝イチの成田空港第一ターミナルで、7:20に行ったときはスタッフは不在だった。そのあと、8:10に行くと、一人のスタッフが一人きりで開店準備を進めていて(公式の開店時間は8:00)、ヘルプもいない状態だった。僕は、この日の最初の客だった。おそらく、1日で一番悪い状態のラーメンを食べたのだろう。
それでも、花月嵐は、この不味いラーメンを石神氏の名前を冠して提供したことには間違いがない。石神氏も、こういうリスクは織り込み済みで花月嵐に名前を貸したはずだ。僕の感想では、「いくら何でもハードル下げすぎだろ」というのが正直なところである。花月嵐のラーメンとしては想定の範囲内だったのだが、石神ブランドとしては、想像した味よりも、かなり下のものが出てきた。
#恐らく、石神氏としては、セントラルキッチンで制作したパック入りのスープをメインにすれば、きちんとクオリティコントロールできると判断したのだろうが、彼の想像以上に、花月嵐のスタッフの質は低かったのだと思う。
石神氏や、彼の信仰者で、ビジネスパートナーでもある渡辺寿庵氏はもちろん、恐らく全てのラーメン評論家が、今の花月嵐がミシュランで星を取るなどとはつゆほどにも思わないはずで、今回の淡麗醤油に限らず、花月嵐のラーメンはその程度のものである。少なくとも、僕は花月嵐のラーメンを美味しいということは、いくら金を積まれても、ない。
今回の花月嵐の淡麗醤油は、一つのとても良い目安である。僕は、全てのラーメン評論家に、このラーメンを食べて、美味しいと思うか、情報発信してもらいたい。これによって、ラーメン評論家が自分の中に設定しているハードルの高さを知ることができる。と、書いてはみたものの、今や石神氏もラーメン界の重鎮。実名で「まずい」と言える人がどの程度いるのだろうか。せいぜい、「好みだから」とお茶を濁すのが精一杯かもしれない。
#食べ物について「好み」と言ったら、評論家はその時点で終了だけどね。
全ての食べ物の評論家が、自分の中に「ここより上なら美味いと言って問題ない」というハードルを設けているはずだ。そして、そのハードルの質と高さが、評論家の個性である。ハードルの質は、どこまで自分の好みを殺せるか、とかから始まって、食べる時の体調管理とか、一日に複数の同じ傾向の食品を食べないとか、意識や体調のコントロールから、店との関係など社会的な面まで多岐にわたる。これらの多くは自分でコントロールできるものだが、評論家として有名になればなるほど、自分では制御できなくなってくる。そして、同時に、ハードルの高さも、コントロールが難しくなるのだろう。花月嵐の広告塔となれば、間違っても、花月嵐がまずいなどとは言えない。自身のハードルを低くせざるを得ない。
あるいは、石神セレクトと名前をつけて、渡辺樹庵氏をディレクターに迎えて期間限定で展開している店があるのだが、この店では保存料入りのニンニクを使用している。こんなものは僕としてはまずくて使う気にならないし、他ならぬ、渡辺樹庵氏でも、高田馬場の旗艦店「わたなべ」でこのニンニクを使うことはないだろう。「池袋の客なら、これでも大丈夫」という思惑、経営判断が背後にあると想像できる。
ただ、ここで書いてきたように、1000人のうち、999人までが「花月嵐」程度なら美味しく感じて、食べて満足する、あるいは業務用の保存料入りニンニクで満足するということなら、全く問題はないのだろう。ハードルの高さの調節は、評論家が自分で判断できる範囲においては、造作のないことである。一般大衆がどこまで判断できるのか、どこまで許容できるのか、推測すれば良い。
ただ、僕は「大衆の味覚はせいぜいこの程度」と推測したことはないし、自分の中でハードルを上下したこともない。上下している評論家を見て、なるほどなぁ、と思って、米国行きの飛行機の中で、それについて書いてみた次第である。ともあれ、僕はこれからも、自分でハードルの高さを調整するようなことはしたくないと思った。それは、僕のラーメン評論家としての矜持である。