写実画家三重野慶さんの画集を買ってみた。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4875866232/ref=as_li_tl?ie=UTF8&tag=returnofthema-22&camp=247&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4875866232&linkId=2f5f96a7f73854a3e9345c784836cb05
写実画家としては森本草介が好きで、最近の作家の作品も数枚持っているのだが、その写実絵画の一つの到達点と感じるのが三重野さんである。
写実画は、どこまで描くか、どこまで100点を追求するかの世界だと思う。たとえば僕はデジタルで写実画を描いて楽しんでいたことがあるのだが、
「まぁ、こんなもので良いだろう」と妥協するところがある。作業に飽きてしまうのだ。技術があるのが前提で、あとはどこまでやるかである。僕の場合はイラレを使っているので、特別な技術は不要で、要求されるのは根気だけである。
そういう状況で絵を描いていて、僕は「ここまで写真に近づけるなら、最初から写真で良いのでは?」と考えるようになって、イラレで写実画を描くのをやめた。
イラレで描くのと、油で描くのでは、作業の難易度が全く違うと思うのだが、まずそこの技術が興味深い。例えば一本の髪の毛。同じ色な領域は一センチたりともなく、ミクロン単位で少しずつ変わっていく。この髪の毛の色を表現するとき、イラレならグラデーションを指定すれば良い。しかし、筆に置いた油絵の具は、少しずつ色を変えていくことが難しいはずだ。細かく色を変えて、レイヤーを重ねるように塗り重ねていくのだろうか。あるいは、下にベースの色を配置して、別の場所から別の色を伸ばしていくのだろうか。どういう手法を使うのかはわからないけれど、イラレの作業よりずっと微妙で難しそうである。
次の興味は、絵を描くにあたって写真を撮っているようなので、その写真と、完成した絵の相同性にある。写真を100点満点の到達点に設定して、そこに向けて描いていくのか、あくまでも参考資料として写真があるのか。この画集の中にあるエッセイや対談には、ちょっとだけヒントが書いてあったのだが、正確なところはわからなかった。
描き手としては、写真とは全く異なる手順で作品を仕上げるので、作品の位置付けも変わってくるはずだ。一方で、鑑賞する側はどうなのだろう。「まるで写真みたい」と感じてしまうなら、それは写真で良いはずで、ではそれが絵画である意味はどこにあるのか。正直なところ、この画集を読んでみても、その答えは見つからなかった。絵を見て、それにまつわるテキストを読んでも、鑑賞する側にとっての「立ち位置」は明確にならなかった。
ちょっと言葉を変えてみる。これだけの絵になれば、作品と画家の関係が通常よりも濃密なことは簡単に想像できる。そして、絵の対象、モデルと、画家の関係も濃密だろう。モデルと作品の関係性の濃淡はわからないけれど、画家を中心として点対象の位置にあったとしても、モデルと画家、画家と作品の位置が極めて近ければ、モデルと作品の位置も近いと想像できる。そうした密度の濃い三者の中で、鑑賞者は作品とどういう関係を持てば良いのだろう。写実画が99%ぐらいの純度ならともかく、その純度が99.9999%になってきたとき、鑑賞者は自分の立ち位置を確保できるのだろうか。
「写真みたい」以外の感想がでてくるのか。少なくとも僕は、実物を見てみないとわからないようだ。