2005年10月02日

ブログでバイオ リレーエッセイ 第3回 「バイオ人材と教育」

とりあえず、現在あまっているとされているポスドクをどうするか。
ここに焦点をあてて、なにか意見ありませんか?ブウさん!!(第2回より)


僕自身は教育に携わっているわけでもありませんし、またポスドクの実態を非常に良く把握しているわけでもありません。ということで、あくまでも一般論に終始せざるを得ません。それで、非常に限定的な「バイオベンチャーのニーズにフィットするためには」ということで簡単に書いてみます。

第2回はこちら→ブログでバイオ リレーエッセイ 第二回「余るポスドク」
お知らせ
「ブログでバイオ」はバイオベンチャーの代表取締役をやりながら大学院博士課程でバイオテクノロジーを専攻しているmaruと、元バイオベンチャー社長で現ITベンチャーCEOの魔人ブウ*が不定期に連載するリレーエッセイです。

基本的な方向性として、「研究」を目指すのか、「技術」を目指すのか、「経営」を目指すのか、の3通りがありますから、これにあわせて考えてみます。

研究を目指すのであれば、maruさんが書いた思考トレーニングが必須でしょう。しかし、残念ながらこれらが十分かどうかはちょっと面接したぐらいではわかりません。ペーパーを見ても特許を見てもわかりません。実際に会社に入って、数ヶ月一緒に研究計画を練っていかないことには実力がわからないんですね。ただ、こういう能力を養成するような教育はできると思います。この事例としてつい最近、東海バイオものづくり創生プロジェクトのサイトに掲載された「◆名古屋大学 生命農学科の武田穣助教授によるバイオテクノロジー講座」というものがあるんですが、この内容が素晴らしいので、かなりの分量ですがちょっと見てみてもらいたいです。是非maruさんの感想を聞いてみたい。僕はこういう「模範解答のない問題に対して頭を使う練習」というのが必要なんじゃないかと思います。ちなみに僕が大学院生の時は実験実験で、座学の単位なんてほとんど出席ゼロ、レポートのみ、なんて有様でした。今は大学院でもちゃんと教育をやっているんでしょうか?で、大学に限らず、ポスドクへの再教育としても、こういう教育を実施するというのが一つの手なんじゃないかと思います。現場から見て的が外れていたらすいません。

次に、技術を目指す場合。日本ではテクニシャンの立場がサイエンティストに比較してかなり低い現状があると思います。しかし、これが正当であるとは思えません。maruさんが第2回で書かれているように、研究活動もどんどん分業化が進んでいます。プロ野球ではピッチャーの分業に続いてバントの専門家までベンチに入れるようになってきています。同じように、テクニックに優れた人の活躍の場は当然用意されるべきだし、報酬面でも優遇されてしかるべきです。僕が社長をやっていた会社では研究スタッフと同様、テクニシャンも高く処遇していましたが、こういうことは全体で見るとまだまだ一般的ではないんだと思います。こうした中においては技術指向の博士にとって逆風なのは間違いないのですが、このあたりの状況が変わる気配はないんでしょうか?状況さえ変われば、特に再教育などといった手段を講ずる必要もなく、マッチングは可能だと思います。日本においては典型的なキャリアパスとして、まずテクニックの習得、続いて研究活動、そしてその延長線上でマネージメント、というのがあると思います。これはベンチャーに限らず、業種に限らず存在すると思います。手を動かすのが最もヒエラルキーが下で、頭を使うのが上で、管理が一番上、みたいな考え方ですね。まずはこの考え方をリストラクチャリングしないとだめだと思います。ただ、この根源は霞ヶ関にあるんですよ。霞ヶ関でも事務官が上で技官が下。その考え方が末端まで浸透しちゃっているんじゃないでしょうか。でもまぁ、何にしてもテクニシャンの待遇改善。これが一番手っ取り早い処方箋だと思います。

最後に経営です。これが一番ハードルが高いですね。ベンチャーの経営人材としてポスドクが活躍の場を求めるのは非常に困難だと思います。研究スタッフとして活躍しているうちに徐々に軸足が経営に移る、ということはあり得ると思いますが、最初から経営を狙うというのはちょっと考え難いですね。

ということで、僕の考えはこの程度なんですが、この道のプロ、maruさんのご意見は?

さて、続いてmaruさんの第2回について。

理系の就職率だけでみると
学士>修士>博士
という構図です。
高学歴になればなるほど、就職率が悪くなる。
これは僕が大学院生だった1990年頃にも言われていました。ただ、僕の周りにいた大学院生は全員就職していました。職に就けなかった人は僕の知る限り誰もいませんでした。まぁ、当時はバブルがはじけるかはじけないかのぎりぎりのところだったので、社会的に恵まれていたということもあったかも知れません。また、大学の看板というのもあったでしょう。それは教育の内容、学生の質ということではなく、です。

当時言われたことは、「博士は企業では使いにくい」ということです。「専門性が特化してしまい、プライドも高く、性格的にも組織に馴染み難い」という話でした。これが一般論として正しいかどうかは不明ですが、僕は企業の側にも博士の側にも問題はあるのかな、と思います。学生だった当時、学生の立場の僕が思ったことは「要は企業の側に優秀な学生を使いこなすだけの能力がないということだろう」というものです。専門性が特化していようが、プライドが高かろうが、例えばノーベル賞受賞者が上にいれば、おおよその人間は使いこなすことができるんじゃないかと。ノーベル賞受賞者なんていうとちょっと論点がずれてしまいそうですが、要は、博士を使いこなすだけの優秀で魅力的な人間がいれば問題ない、ということですね。ただ、その一方で博士課程の学生に対しての一般的な評価、「組織に馴染み難い人間」というのもそれほど外れてはいなかったと思います。しかし、これは一面的なものの見方ですね。組織に馴染み難い人間などというと全人格を否定しているような感じですが、例えば、興味を持ったことに一生懸命になる、いわば職人気質の人間がこれに含まれるわけで、そういう人種によってサイエンスが牽引されていることは間違いないんじゃないでしょうか。それで、両者をマッチングするためには両者が共に歩み寄る必要があったのに、実際はそれがあまりなされなかったというのが実情だったんだと思います。

ただ、これらの話はあくまでも昔話。もう15年も前の話で、今がどうなのかはわかりません。当時は企業も無理に博士を採用しなくても、大学と共同研究をやってそこから情報をどんどん入手できた時代です。僕の研究室も民間企業の研究者を受け入れて共同研究をすることによって、その企業から最新のマックを導入してもらったりしていました。今は大学が知的財産を重視している時代ですから、その後状況は一変しているはずです。

それから、僕が政府に近いところにいて痛感したのは、行政担当者は非常に「Ph.D」という文字を評価しているということですね。これはもう「東大卒」なんていう肩書きよりもずっと効果があります。恐らく「学位配布会社」なんていうのも成立すると思いますよ。お金を払ってでも学位が欲しいという人はたくさんいると思います。僕も欲しいし。邪魔にならないし(万一邪魔になるなら隠せば良いし)、一生もんですしね。そういう状況をみていると、博士という肩書きを上手に利用できない人がたくさんいるというのが不思議でならないんですね。

どのような研究が意味のあることなのか?
どのような戦略で研究を進めればよいのか?
研究計画はどのようにえがくか?

こういった思考のトレーニングをしていかなければ
これからの世の中にあった研究者になれるとは
到底思えないですね。
これは全くその通りだと思います。つまり、要求水準は上がっているわけです。ところが、僕の実感は博士の質の劣化です。僕が実際に触れる機会のある博士というのは20代後半から30代前半なので、maruさんとは微妙に世代が異なるのかもしれませんが、これらの博士達は明らかに僕の世代の博士よりも質が低いと思います。これはあくまでも僕が僕の周りの博士とコミュニケーションを取った経験からの感触なので、一般論に転換できるのかどうかはわかりませんが。

以前、東大で実施された講演会で面白おかしく述べたことがありますが、博士という肩書きがありながら、数値の平均を取ることの意味とか、活性のある濃度範囲に関する考え方とか、非常に基本的なことがわかっていなかったりして驚かされました。要は、公式は知っているけど公式の考え方を理解していないんですね。

これに関しては1つ思い出話があるんですが、僕が高校生のときに物理の授業で、重いものでも軽いものでも地面に落ちる速度は一緒、と聞いて、これはおかしいぞ、と思ったんです。

例えば地球と同じ大きさで質量が100万倍の星があったとします。この星ではものは地球よりも早く落ちるはず。じゃぁ、この星と地球が引力によってぶつかったらどうなるのか、と。お互い、自分から見て相手が落ちてくると考えるはずですが、そのときのお互いが感じる相対速度は同一のはずで、お互いが重力加速度一定を主張するのであれば理屈が合わないだろう、と。間違いなく地球には10キロの重さの砲丸よりも質量100万倍の星の方が早く落ちる(これを落ちるというかは微妙ですが)はずだと。じゃぁ、重いほうが先に落ちるんじゃないの?と思ったわけです。で、重力加速度一定というのはおかしい、と先生にレポートを提出したんですが、残念ながら彼は「いや、重力加速度は一定なんだ」の一点張りでした。

その後、大学に行ってから大学の先生にこの話をしたら、「重力加速度一定というのはあくまでも実験・観測から得られた近似公式で、質量が著しく大きい場合は適用できない」という返事がきました。それで2年ほど悩んだことに対してようやく明快な回答が得られました。要は、高校の先生が「重力加速度は一定だ」という考えに全く疑問を持っていなかったのがおかしかったわけです。

でね、何が言いたいかというと、僕が子供のときとかはこういう思考実験というのを色々やっていたよな、と思うんです。ところが、教育する側が「重力加速度は一定」とだけしか教えないと、だんだんそういう習慣がなくなってきちゃうんじゃないかと。もちろん、大学に合格させるには高校の先生のやり方で全然問題ないわけですが、その結果頭が固くなってしまって、「マニュアルを使うこと」はできるんだけど、「どうしてそういうマニュアルになったのか」を考えることが非常に苦手になってきているんじゃないかと思うわけです。

能力には「知識」と「考え方」の2つがあると思うのですが、第1回で紹介した「産業界ニーズと大学教育カリキュラムのミスマッチ分析」(これは霞ヶ関の経済産業省大学連携推進課に行けば誰でも見せてもらえると思います)では「知識」のミスマッチを検証していました。で、これとは別のところで「考え方」というのもあるんじゃないかな、と。知識は極端な話、専門書を一冊渡せば数週間で身につきますが、「考え方」というのは一朝一夕には難しいんじゃないかな、と思います。バイオの世界は力仕事のイメージが強いのですが、その一方で物理や化学に比較してはるかに未知の領域が多い分野で、特にこうした「考え方」のトレーニングが必要なんじゃないかと思います。

ということで、今回は大変長くなってしまったわけですが、バイオ教育という場にいるmaruさんからの現実の状況報告や、それに対する解決策案あたりを出してもらえると良いかな。

バックナンバーはこちら→
第1回 「余るポスドク」
第2回「余るポスドク」

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>ということで、今回は大変長くなってしまったわけですが、バイオ教育という場 >にいるmaruさんからの現実の状況報告や、それに対する解決策案あたりを出して >もらえると良いかな。 さてさて、非常に私の番になってから時間がたってしまいましたが第4回目。 バ...
ブログでバイオ リレーエッセイ 第4回「バイオ人材と教育」【学生社長の会社経営奮闘記】at 2005年10月20日 13:57
この記事へのコメント
外注部分を作ることで考える時間を作ることには賛成。ただ、よく理解していないことをはじめから外注してしまうと、もっと駄目な研究者が生まれてしまいます。外注を認めるのであれば学部時代にどれだけ意味を理解しておくべきか。そうすると、教科書どおりの実験、過去レポ丸写しで通ってしまう実験ではなく、学部時点でももっと考えさせる授業・実験が必要となってくるのではないでしょうか。
大学は遊ぶもの、と勘違いしがちな日本の学生と、教育側とのいたちごっこをやめさせるには、やはりまずは「意識改革」。大学に何をしに来るのか。
そこをしっかり伝えたいですね。

あ、大幅にずれました。すみません(><) どこが問題なのか、犯人探しをしたり正論を述べるより、今ある問題をどう解決するかを考えないといけないですよね・・・。

Posted by アツコ at 2005年10月04日 18:55
原因を考えることは重要だと思うのですが、教育全般に風呂敷を広げてしまうと話は難しくなってしまいますね。ただ、今の就職難というのは大学の教育改革にとっては追い風だと思いますよ。大学は学生という商品を企業に販売する商売ですから、当然マーケットのニーズを把握する必要があります。マーケットが不活性化すれば、当然大学は知恵を絞る必要が出てきます。

大学には研究と教育という二つの機能が求められていますが、バイオに限れば教育という部分がかなり軽視されていると思います。そろそろこのあたりは考え方を変えなくてはいけないところだと思うのですが、当事者がそういう自覚を持っているかどうか微妙ですね。
Posted by buu* at 2005年10月05日 02:24
重力の問題は、作用反作用の考えを無視すると混乱するのだと思います。
換算質量を考えればすぐに解決する問題ではないでしょうか?
その高校の先生は論外ですね笑。ぶっつぶしてしまえ笑!!

確かに、このきまりは何のタメにあるのか?、って考えるのは重要なことですよね!会社おこしてるなんてすごい。マイミク申請しても良いですか?
Posted by こたん at 2006年03月26日 11:20
先生もダメだけど、公式を覚えてうまく使えればオッケーという教育にも問題がありますね。

重要なのは「いかに手を抜くか」ではなく、「どう考えるか」です。「あれ?不思議だな?」と感じたときに、それをどうやって解決するか。そういう積み重ねがあった後に公式や電卓やパソコンで手を抜くのは決して間違ったことではないですが、まずは頭を使う訓練をしないと。公式を教えてその利用方法を訓練するというやり方は理系離れを助長していると思います。これでは答えを出す喜び、100点を取る喜びは教えられても、考えることの楽しさがほとんど伝わりません。

マイミクについては別途メッセージを送っておきました。
Posted by buu* at 2006年03月26日 12:57