市場原理の下では、ここにコップ一杯の水があるとすれば、一番高い値段を付けた人に売るのが「効率的」だと判断されます。人々のモノやサービスに対する必要や欲求の強さはすべて貨幣の単位で表現され、高い価格をつける人ほどその必要や欲求は高いとみなされるからです。のどが渇いて死にそうだけれどコップ一杯の水に対しては一〇円しか払えないという貧しい人よりも、二日酔いで頭が痛いので一〇〇〇円払ってもよいという金持ちのほうが市場では優先されるのです。こうした市場の原理を公共サービスの分野にまで可能なかぎり拡大しようとしているのが、「構造改革」の名の下で進められている民営化にほかなりません。(『優しい経済学』高橋伸彰(たかはし・のぶあき)、ちくま新書(2003))なかなかわかりやすく構造改革の一面を表現しているのですが、大衆をリードする目的で専門家が恣意的にものごとの一面だけをアピールするのって、どうなんですかね?いや、僕自身はこの本を読んだわけではないので、もしかしたらきちんと他の面もわかりやすく解説しているのかもしれませんが。
構造改革にこういう側面があるのは間違いないのですが、市場原理を導入した場合、価格は高くなるばかりではないですね。欲求は「買いたい」だけではなく、「売りたい」というのがあって、「売りたい」という欲求が強く働けば、その価格は下がっていくことになるはず。1つの業者が商品をたくさん持っている場合、あるいは多数の業者が似たような商品を持っている場合、当然価格は下がって行きますね。逆に言えば、価格が高騰する場合は当然それに見合うだけの付加価値があるはず。例えば、実際に日本に大災害が起きて誰も水を手に入れられないという状況に追い込まれれば、コップ一杯の水にも「入手困難な」という付加価値が発生するわけで、高橋氏が書いているような事態も発生しうるわけです。しかし、そうした事態を想定しつつ平時の社会制度を整備していくわけにはいかないことは自明です。そういうエマージェンシーに際しては専用の社会制度を整備すれば良いだけのこと。また、憲法で基本的人権が保障されている以上、高橋氏の記述は空論とも言えますね。売りたいという欲求と買いたいという欲求のバランスが取れている中で社会が形成されているわけで、そのうちの片方を全く無視して議論を展開するのはかなり変です。で、これがかなり変なことは実は高橋氏自身、わかっているはず。わかっていながらこういう論を展開するあたりに気味悪さを感じますね。「週刊!木村剛」で木村さんは
ここで忘れ去られているのは、売り手側の心情と規制です。と書いていますが、心情や規制といったことを持ち出すまでもないんじゃないでしょうか。
ただ、これは比喩がおかしいだけで、こと郵政に限れば民営化した結果、弱者切り捨てということは発生すると思います。一応政治家は「そんなことにならないように規制する」とか言っているようですが、どうしたって無理は出るんじゃないですか?まぁ、対処するなら補助金をつけるとか、商売にならないところだけ国がやるとか、そんな感じですか?でも、ある程度の切り捨ては仕方ないんじゃないですかね?例えば、郵便が2日以内に届くことって「健康で文化的な最低限の生活」に必要なことですかね?良くわからないのですが。水が飲めるということは必要なことだってわかるんですけど。
そもそもの話ですけど、構造改革とは、要は「今までのやり方では日本は徐々に体力を失っていくだけだ。その原因は日本型社会主義にある。これを打開するために、まずは民間で出来るところは民間でやって、日本の国力を増強しよう。そして、十分な体力がついたところで次の展開を考えよう」ということですよね?日本型社会主義はバブル崩壊の頃までは機能したけれども、高度情報化社会にシフトしたあたりから機能不全を起こしているから、新しいバランスを見つけ出そう、と、そういうことですよね?で、その新しいバランスとは、一億総中流ではなくて、米国的な勝ち組の存在する社会だってことですよね?グローバリゼーションの中でリーダーとなれる強者を育成していこう、と。これまでの日本社会は官僚や政治家が権力を持って牽引する社会だったわけだけど、これを一部の資本家が財産を持って牽引する社会に変革しよう、と。そして公務員はそうした社会の基盤を維持・運営していくことに集中しよう、と。
個人的には構造改革とは権力者主導の社会主義社会から、資本家・マーケット主導の資本主義社会への改革だと思っていたんですが、これって間違ってますか?