まず、ソフトより弱い棋士が作る棋譜に価値があるのか、ということ。上に述べた「芸術性」という部分を考慮すれば価値がないとは言えない。8五飛車戦法にしろ、ゴキゲン中飛車にしろ、一番最初にそれを採用したのは真のトッププロではない。トップからやや落ちるぐらいの位置にいる棋士がまず採用し、そしてその棋譜を目にしたトッププロ達が「これは面白そうだ」と採用することによって一般化してきている。もっと言ってしまえば、プロ棋士である必要もないかもしれない。現在将棋倶楽部24で山ほど指されている将棋の中に「面白い」ものが存在している可能性もある。必要なのは新しい戦法を生み出すことではなく、多々ある戦法の中から「面白い」と感じる戦法を見つけてくる感性である。したがって、作る棋譜に価値があるかどうかは置いておくとして、面白いものを見つけてくる感性がある棋士の存在価値は、「その後の世界」においても間違いなくあると思う。
続いて、普及の面から棋士の価値を考えてみる。面白い戦法はいつでもどこにでも転がっているものではない。発明というよりは発見の色彩が濃いので、場合によっては何年も発見の対象となる棋譜が発生しないことも考えられる。この場合、次に要求されるのは普及活動である。逆に言えば、「たまたま発見するかもしれない」ことよりも、日常的に活動できる「普及」にこそ価値が出てくるのかもしれない。したがって、普及ができない棋士の存在価値はこれからどんどん下がってくると考えられる。
面白いものを見つけてくる感性にしても、普及にしても、コンピュータよりも人間が得意な分野である。面白いものを見つける、あたりはその思考過程を上手にプログラム化してしまえばコンピュータにもできることになりそうだが、この部分はまだちょっと時間がかかりそうである。プロ棋士の価値をどこに見出すのかを考える場合、「その後の世界」においては人間主体的に「どこに価値があるのか」を考えるのではなく、「コンピュータは何ができないのか」を考えて、それに対応していかなくてはならない。それがきちんとできれば、その後もきちんとした価値を生産していくことができるはずだ。
何はともあれ、「強いことが正義だ」で通してきたプロの将棋界は、自らの立ち位置を再設定するする必要に迫られる。一番強いのがソフトになってしまったら、価値を別のところに見出さない限り、自己を否定してしまうことになる。

コンピュータ対竜王
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パラダイムシフト
日本将棋連盟理事会の構造的特徴
活路はコミュニケーション要素か?