2008年04月27日

今、そこにある格差(メモ書き)

野党の主張と言うのはちょっと油断すると単なる人気取りに走りがちだ。今、気になるのは「格差社会を是正しよう」という主張である。野党は「格差」「格差」と連呼するが、では、今日本に存在する格差とはなんなのか。もちろん、野党が主張しているところの所得格差も確かに存在する。しかし、所得格差、特に上方向の所得が多すぎるからこれを是正せよ、という主張は全く的が外れている。例えばイチローや松井のように、自分の能力だけを頼りに米国に出て行き、そこで年間億単位のお金を稼いでいる人のことを悪く言う人間がいるだろうか。彼らは多くの日本人にとってあこがれであり、目標であるはずだ。上方向の正当な格差を否定することは、日本に古くから見られる「妬み」感情に他ならない。これは決して否定されるべき格差ではないし、考えるべき格差でもない。所得の格差とは、他の格差から生じる二次的な格差である。では、今考えるべき格差とはなんなのか。

日本人が考えなくてはいけない格差には大きく二つある。それは「権利の格差」と、「能力の格差」である。前者は解消すべき格差であり、後者は存在を認めなくてはならない格差である。これらは所得とも密接に関係しているが、所得の格差は表面的なものであって、それに対して「権利」「能力」の二つはより根源的なものである。

まず、権利の格差である。権利と言うと色々なものが含まれてくるが、今回言及したい「権利」をわかりやすいところで例示すれば「正社員」(厳密には正社員と言う言葉は正しくないのだが、一般論としてその言葉が社会的に認知されているのであえてこのエントリーでは使用する)という権利である。正社員と非正社員の間には大きな格差があって、これがさまざまな弊害を生んでいる。非正社員が正社員に対して不利だということは誰でもすぐにイメージできるが、正社員側からしても、一度正社員になってしまうとそこから飛び出すことが非常に難しいという状況が生まれている。そして、その延長線上にはいくつかの「顕在化しない不利益」が存在する。たとえば、会社の待遇に不満があっても、正社員という既得権を手放したときに状況が悪化するのが見えているので、泣き寝入りせざるを得なくなる。これがサービス残業などの就業環境の悪化につながるのだ。「正社員」という権利が固定化しつつ存在することによって、非正社員のみならず、正社員までもが不利益を被っているのである。

労働力の流動化を阻んでいるのは間違いなく労働基準法および労働契約法であり、そしてそれを良しとする国民性であり、さらにはその上に胡坐をかいている既得権者達である。それらによって日本の権利の格差は固定化している。僕は「現在の労働基準法は労働者を保護しすぎである」というスタンスで(実際には文面上は保護していないにも関わらず、運用によって保護しているケースもある)、その内容は下記のエントリーで詳細に述べているのでそちらを参照してほしい。

「安心」は向上へのモチベーションではない

この手の、「権利の格差」が顕在化した事例としてはポスドクの余剰問題、各種談合に関するもの、年金問題、街中の書店の閉鎖、学歴社会、女性差別、教育問題など、大小含め枚挙に暇がない。そして、この格差は是正されてしかるべきである。逆に言えば、これらが解消されていかない限り、日本の国家としての競争力は回復しない。なぜなら、日本のライバル達は、日本以上に成功の機会を持てるような社会に変革しつつあるからである。

ちなみに、日本にいる労働者の中でも、本当に能力の高い人間達はこうした既得権に対して全く無頓着である。実際、大企業の要職で働いている人間や、あるいは中央省庁の官僚の中でも特に優秀な人材と話をしていても、「クビになっても別に全然困らない」という話をする。それは強がりでもなんでもないし、実際、彼らはどこに出て行っても大丈夫だろう。問題はそういう自信のない、「その他大勢」が、手にしている既得権を手放そうとしないということである。これは、年功序列の中でヒエラルキーの上位に位置している「働かない既得権者」と、その予備軍である。実際、多くの人が僕の文章を読んで、「そりゃ、有能な人は良いでしょうよ。でも、有能な人ばかりじゃないでしょ?」「でも、いつまでも第一線で働き続ける自信がないんですけど」と言いたいんだと思う。そして、その意見が通ってきたのがこれまでの日本である。しかし、そういう時代はそろそろ終わりにしなくてはならない。終わりにしないと、本当に日本は世界の中で一人負けになる。人間はほとんど場合、そこに存在し続けるだけで価値など発生しはしない。価値を生み出したければ、努力が必要なのである。その努力を否定するような「権利の格差」(=権利の固定化)は社会から排除されなくてはいけない。

次に能力の格差である。先日、IT業界にいる人間としては興味深いデータが公表された。

第2回 インターネット関連業界の職種別給与調査

調査母数がかなり少ないので、このデータの信憑性と言うのはある程度割引いて考える必要があるのだが、それでも利用方法によっては参考になるデータである。

プログラマの平均年収は約400万円で、この額は私が25歳程度のときにもらっていた給与とほぼ同一である。端的に言ってしまえば、「安すぎるんじゃない?」ということになり、ではなぜそういった状況が一般化しているのかと言えば、「権利が固定化しているから」となる。「会社を辞めたら仕事がないかもしれない」という深層心理につけこまれて、安い給料で「正社員」として働かされているプログラマが沢山いるのだろう。

ただ、考えるべきは果たしてそれだけなのか。「プログラマは気の毒ですね」というのは一般論ではあるが、必ずしも正しい認識ではない。

プログラマと一口に言っても能力は千差万別である。デキる奴もいればデキない奴もいるのだ。そうした「能力」の格差は、こうした統計結果からは読み取ることができない。では、なぜこういったデータを我々が参考にするのかと言えば、「おおよそ能力と言うのは平均的なものだ」という根拠のない前提を無条件に受け入れているからに過ぎない。しかし、現実は違う。平均とひとくくりにしてしまえば一般論として「安い」「高い」を論じることができるが、成果物と照らし合わせて「それが給与に見合っているかどうか」を検討しなければ本来の意味はないのである。能力があって、成果物も優秀なのに年収400万なら「それは安すぎる」と判断されるし、成果物がろくでもないのに年収400万円なら、「正社員になっておいて良かったね」となる。ところが、現在は能力一定の建前があるからこうした正しい判断がなされない。「まぁ、色々いるけれど、総じて言えば妥当な額なんじゃないの?」みたいな曖昧模糊とした結論にならざるを得ないのである。結果としてどうなるかといえば、一部の有能な人材に業務が集中し、そして有能な人材が疲弊していくのである。

「正社員」という権利によって「非正社員」から分離された層は、能力によってさらに二つに分けられる。平均的能力より上の人間と、平均的能力より下の人間である。僕のこれまでの経験からすると、これらの絶対数は平均以下の方が数は多く、できる人間は少数だが物凄くできる。したがって、「能力主義にしましょうよ」という話をすると、それでは困る人間の数の方が多いので、いつまで経っても「いや、年功序列で良いんじゃない?」ということになる。しかし、私見ながら、そういう「能力の格差」から目をそらし続けていることは近い将来できなくなってくると思う。実際、いくつかの会社ではすでにかなり厳格な能力主義が導入されつつある。

目の前に存在しているのに既得権者が手放さない「権利の格差」と、目の前に存在しているのにそれを認めたくない人たちが目をそらし続けている「能力の格差」は、認識すること自体は決して難しくない。なぜなら、目の前にあるからである。しかし、前者を解消することも大変だし、後者を受け入れさせることも大変だ。そしてこの二つの格差が日本社会の根底に横たわり続けているおかげで、いつまで経っても日本の社会は沈滞ムードを払拭できないでいる。

個人的に身近な例としてポスドクの余剰問題を挙げてみる。簡単に言ってしまえば、「これからの日本には科学技術を牽引するエリートたる科学者達が必要だ」という理念の下、大量に博士を生産したところ、ポスドク(=博士号を取得した後、無期雇用の職についていない人)が余ってしまって行き場がない、という問題だ。実際、かなりの数の博士号取得者が行き先がなくなって困っている。この問題を見ていると、ときどき「全てのポスドクが就職できるまで問題は解決しない」などと頓珍漢な意見にぶつかることがある。この意見が全く傾聴するに値しない理由は、ポスドクの質についての検討が全く為されていないということである。一口にポスドクと言っても、その質はさまざまだろう。一所懸命努力していて、評価されるべき能力を保有している人もいるだろうが、全てのポスドクがそういう人間であるとは限らない。そこでは必ず評価のフェイズが存在するはずで、それを放棄してしまっては話にならない。実際のところ、人を評価するというのは日本人が最も苦手とする行為なのだが、市場が商品を評価するのと同様、企業は人を評価しなくてはならない。目の前にある「能力の格差」をどう顕在化し、それを評価につなげるかと言うことが、これからの社会では大きな課題になってくる。

日本の社会といえども徐々に年功序列から能力主義にシフトしつつある。なぜなら、年功序列のシステムでは能力主義のライバル国に太刀打ちできないことがはっきりしてきたからである。そうした意識が高い企業から、徐々に地殻変動は始まってきている。能力主義社会にシフトしたとき、一番困るのは誰なのか。もちろん、能力がないのに年功序列によって上位に位置している既得権者達である。彼らは、能力主義になったときに一番割りを食う人たちだから、当然のことながら既存の体制を維持することに全力を注ぐ。いわゆる「抵抗勢力」である。そして、日本においてはこの抵抗勢力は決して無視できない規模の勢力である。

「努力した人が報われる社会にしましょう」という標語があった。なぜこういう標語が出来たかといえば、努力しているのに報われていない人が多いからである。実際、今の日本社会は努力しても報われないことが多い。いや、これは正確ではない。努力する時期を間違えなければ、努力は報われる可能性が高くなる。問題は、その時期と言うのが人生のかなり早い段階に設置されていて、その時点では当人の家庭環境の影響が物凄く大きいという点である。大学に在学している頃になってしまうと大抵の場合はもう手遅れであって、「なんでこんなことに」と思ってももう遅いのである。そうした閉塞感にある多くの日本人労働者に対しての「報われる社会」だったのだが、この言葉は、裏を返せば「努力しなかった人は報われなくても仕方がない社会」でもある。そのことが徐々に明らかになるにつれ、政治家はこの言葉をあまり使わなくなった。なぜなら、能力のない人(自分の能力に自信のない人を含む)、努力をしない人(自分の努力が他者に比較して十分でないと考えている人を含む)が日本には相当数存在していて、しかも、少なくない数の人が既得権者として要職についていたり、その予備軍であったりして、それらを否定することになりかねなかったからである。政治家は基本的に「過去に票を投じてくれた人のために働く人」ではなく、「将来票を投じてくれる人のために働く人」であるから、有権者の認識が変わってくれば対応も変わる。

今の日本はこうした抵抗勢力(=既得権者)と新興勢力の綱引きの場となっている。

世の中は、間違いなく能力主義にシフトする。問題は、その時期だ。そして、そのパラダイムシフトが起きたとき、もっとも大きな被害を受けるのは「既存の価値観の中で何の疑いもなく育ってしまった競争能力のない人たち」である。その立場にならないためには、能力の格差を認識し、能力の格差を受け入れ、そして何をすべきかを考えることが必要だ。世の中には実力主義の社会が沢山存在する。先日メジャーを首になった野茂投手などは直近の良い例である。そうした実力主義社会の流れは、もうすでにすぐそこまで来ている。この事実から目をそらしている人たちは、波に飲み込まれたら最後、もう助からない。権利の格差を認識しそれを解消するために努力することと、能力の格差を認識しそれを受け入れそして自分の人生における戦略を立てること。この二つが、今そこにある格差への対応策だと思う。

ちょっと踏み絵を用意してみよう。次の7つのうち、「そう思う」という項目はいくつあるだろうか。

「安定した生活を送りたいから大企業に就職したい」
「年功序列は良い仕組みだ」
「終身雇用はありがたい」
「会社は従業員のためにある」
「ホワイトカラーイグゼンプションの導入は労働強化につながるから反対だ」
「みんなやっているし、サービス残業は仕方がない」
「最低賃金はもっと高くするべきだ」

ひとつでも「そうだ」と思う項目がある人は、基本的に古いタイプの人間、競争社会では生きて行けない可能性が高い。4つあったら、競争社会ではほぼアウツだろう。しかし、そうした人たちに対して積極的なセーフティネットを用意する余裕は今の日本にはない。そもそも、大多数はまだ非競争社会が持続可能なのではないかという幻想を抱いているのだ。ただ、今アウツでも、将来的に助からないわけではない。早い段階でそれに気付き、対応していけば助かる可能性は高くなる。

では、そうした能力主義社会とはどういう形態になるのか。少なくとも、日本人の思想は根本的なところから変わらざるを得ない。これまでの日本人は隣の人を見て、一緒であることを良しとしてきた。ムラ社会の中で個性を殺し、人と同じことをやっていくことを美徳としてきた。目立つことをすれば「出る杭は打たれる」のことわざよろしく、仲間はずれにされ、コミュニティは均質化を目指してきた。実は、現在もこうした均質化を目指すコミュニティは脈々と存在している。例えばミクシィのコミュニティなどは顕著で、映画愛好家のコミュニティで「○○はつまらない」などと否定的な意見を述べると叩かれる。コンピューター系のコミュニティにおいても、ちょっと普通ではない応答をする人がいると「アクセスブロックをすべきである」などという意見が出てくる。異端の存在が疎ましくて仕方がないのである。しかし、こうした均質化された状況は能力主義、競争社会にはフィットしない。なぜフィットしないか、ということになるのだが、ここでまた別の事例を取り上げてみる。

先日、銀座の旭屋書店が閉店するというニュースがあった。街中の本屋は今、物凄い勢いで淘汰されつつある。僕が子どものころから通っていた地元の本屋も先日閉店した。恐らく30年以上営業していた本屋が、である。なぜ本屋の経営が難しくなってきているのかといえば、amazonの台頭が原因だと思う。目的の本を本屋で探したり、あるいは目的もなく本屋の棚を色々とチェックする楽しみと言うものも存在するのだが、一方で「目的の本をすぐに入手したい」というニーズも間違いなく存在し、そしてそのニーズは拡大しつつある。「無駄」は必ずしも排除すべきものではないが、現代人の生き方には無駄のスペースがなくなりつつある。そうした合理主義思想からは、ネットで検索して希望の書籍を見つけ、ネット上で注文し、宅配便で数日のうちに届けられるというシステムは非常に魅力的だ。そして、その他にもう一つ大きな問題が存在する。それは、再販売価格維持制度である。日本では書籍、雑誌、新聞、音楽に関して割引が認められていない。割引できないということは、店舗間での価格競争がないということだ。本屋の場合、競争するポイントは立地、規模、品揃えといったところに限られる。変わったところでは「閲覧用の椅子を用意」といったサービスを提供している店も存在するが、こうしたサービスによって差別化を図っている店舗はマイノリティである。立地、規模は店を開店した時点で決まってしまうし、品揃えもある程度は店舗の規模にリンクしてしまう。したがって、本屋は開店した時点でほとんどその性格付けが終了してしまうのである。こうした非競争環境におかれていた業界はどうしても新興勢力に対する抵抗力が落ちてしまう。amazonという新しいライバルによって、いともあっさりと土俵の外へ押し出されてしまったと考えられる。均質化された既存書店には競争がなかった。そして、そこに異端が入ってきたことによって、あっさりと既存書店が退場に追い込まれてしまったわけだ。均質化された社会は新しい価値の台頭に対して非常に免疫力が弱い。

「その後の世界」の新しいルールはここに暗示されている。つまり、能力主義の競争社会においては、人と同じでは駄目なのである。人と一緒であることがアピールポイントだった世の中から、人といかに異なるかをアピールする世の中へ、すなわち、「能力の格差」をアピールする世の中へと変わっていくのである。競争社会には当然厳しさも存在する。他者との差別化は、自らの能力と努力によって為されるからである。そして、その、各自の少しずつの日々の努力が国の競争力につながっていく。そうした競争を続けていけない人は、大企業や公務員といった、競争の少ない低成長組織に属することになる。

そして、もう一つ、会社の従業員管理手法も大きく変わるだろう。これまでの会社は経営サイドからの命令、そして従業員のモラルと横並び体質によって動いてきた。経営からの指示は引き続き出されるだろうが、従業員サイドの目安、モチベーションとなるものはモラルや横並び体質といった曖昧なものではなく、あくまでも評価がベースになる。従業員は常に「会社に何を提供しているか」を意識させられるし、同時に「社会全体で自分の能力がどの程度評価されるのか」を意識して生きることになる。この、「評価」の視点の導入も日本社会にとっては非常に高いハードルになると思う。それは、評価する側、評価される側の双方にとって、である。もともと十七条の憲法による「和を以て貴しとし」を金言とし、農耕民族として共同作業を続けてきた日本人には競争も評価も体質的に合わない。そして、人より優れることを目指すよりも、人より劣ることを恐れる。だから、「評価しますよ」となれば、「×をつけられたらかなわないから反対」となるし、「×をつけたらうらまれるから反対」となる。しかし、この体質も、やはり国際的競争による外力によって変わらざるを得ない状況になりつつある。

つい先日、「休みたいなら辞めればいい」と発言して物議をかもした社長がいたのだけれど、このケースは二つの意味で非競争社会の典型的な遺物である。一つは「非競争社会の典型的な社長」であり、もう一つは「非競争社会の典型的な社員」である。他者と能力で差別化できないから「休日も働く」という努力で他者と差別化しなくてはならない。いや、他の人が休日も働いているから自分も働かなくてはならないのである。こうした発言は一般論としては暴言であるけれども、「会社」というローカルルールの中では十分に正論である。社長がそういうスタンスなのはわかっているのであって、そういう会社を自由意志で選んだのが社員である。もちろん労働基準法を盾にとって戦うという手段もあるのだが、そんな手間をかけるくらいならさっさと辞めてしまえば良いというのは確かに一理ある。実際、僕のように転職を繰り返している人間から見れば、「いやならさっさと辞めちゃえば良いのに」と思う。

#ただし、厳密に言えば、この社長と僕の意見は表現は同じだけれど、内容は全く違う。この社長の発言は「嫌なら辞めれば良いでしょ。でも、辞められないでしょ?だから従いなさい」というトーンだが、僕の意見は「本当に辞めちゃえば?」である。また、僕の「辞めちゃえば?」は誰に対してでも適用できる言葉ではない。辞めても次の仕事をきちんと見つけてくることができる人、あるいは起業してしまって好きなようにやっていく能力がある人に対してだけの言葉である。その会社を辞めたら次がない、という人は、石にしがみついてでもその会社に残るべきだとは思う。そして、いやいやながらもそこで働きつつ、次を見つけることができるような能力の開発に努めるべきだろう。

結局のところ、その会社は少々変わった価値観の経営者と、それを受け入れている従業員で形成されているということだ。そして、この会社社長の発言は会社ではそれほどネガティブには受け取られていないのではないかと思う。つまり、多くの社員はそのスタンスを良しとして、その環境を受け入れつつ働いているのではないかと思う。この社長の考え方が社会全体のスタンダードになってしまうのはいかがなものかと思うのだが、一方でそのことについて外野がとやかく言うのもいかがなものかと思う。

仮に、この会社の社員の多くが現状に対して大きな不満を抱えているというのであれば、悪いのは社長でも、そしてもちろんそれを受け入れざるを得ない社員の存在そのものでもない。問題は、自由意志で辞めるに辞められない、「正社員でなくなってしまうことに多大な恐怖心がある日本社会」にこそ、ある。本来、社会の活力と言うものは個人の個別の努力の集合によって為されるべきだと思うのだが、日本においてはその原動力は「正社員」という権利とバーターになって存在する「我慢」であることが非常に多いと感じる。少なくとも僕がこれまでに見てきた多くの大企業の若手のマインドは「仕方がないから働く」「みんながやっているから働く」「上司に言われたから働く」である。なぜそんな状態になっているのかと言えば、今の若い人が悪いのではなく、会社側が「正社員」という、日本においては非常に大きいと考えられている権利をかなりの自由裁量で配布できるからである。この状況を修正するのに必要なのは、「従業員がもっと強い権利を持つこと」ではない(社民党などはこれを声高に主張しているが、それは米ソで繰り広げられた核開発競争と変わりがない。強すぎる武力は冷戦(=不活性化)を生み出すだけだ)。「正社員」という権利の弱体化である。これによって、「いつでも辞められる」状況が実現し、会社のスタンスは「働かせてやる」から「働いてもらう」に変わるはずだ。なお、能力重視の競争社会とセットで語るべきは「いつでも嫌ならやめられる」という雇用の流動化なのだが、それは以前下記のエントリーで述べているので、そちらを参考にしてもらいたい。

有期雇用と無期雇用

今の日本は成長が見込めない大企業や公務員が多くの既得権を握っている。しかし、その形は理想ではない。不安定で将来が見えにくい企業は有能で高給の社員を抱え、常に成長を目指す。そうした環境に適合できない人は大企業や役所で流れ作業をこなす。こうした形に変わっていかざるを得ない。そもそも、国の今後を決める最も重要な役割を、「評価」とは最も距離のある「公務員」が担当している時点で、この国はどうかしているのである。

こうした変革は、技術シーズに会社の命運を握られてしまう製薬業界などから始まっていくだろう。上で取り上げたプログラマの給与などというのを見ると、IT業界もすでにこうした変革の中にあるのかな、とも思う。優秀なプログラマが起業したりベンチャーの中で高給を取り、優秀ではないプログラマは大きな組織の中で、安定と引き換えに安い給料で働いているのであれば、それはまさしく「その後の世界」のありようである。また、身のまわりを見ていても、IT業界というのは、「能力ある奴」は出世が早いし、若いうちから高給取りになるケースも少なくない。これはトヨタや公務員ではあり得ない話である。あるいはポスドク問題も同じかもしれない。ポスドク問題については、アカデミックポストが既得権者によって占められているという特殊事情はあるのだが(ポスドク問題を論じている人間のうち、少なくない人間が実はこうした「加害者」の立場に居続けているわけだが)、それでも、本当に優秀な人間はちゃんと行き先があるのが現実だ。たまたま中間層部分を既得権者に奪われてしまっているから二層分化がはっきりしてしまい、事態が顕在化しているに過ぎないのかも知れない。

雇用の流動化とは、本来「自由に出て行ける会社」、「自由に入って行ける会社」の両方が必要だ。しかし、今の日本には残念ながら後者が完全に不足している。その影響で前者がないわけだ。後者がなぜ不足しているかといえばもちろん既得権者がいるからである。けれども、もちろん既得権者がいない会社も存在する。たとえば僕の会社には既得権者がいない。厳密には、僕も含めて「株主」という既得権者は存在するが、それは株式会社だから当たり前だ。株主と言う立場を取り除いた場合、僕の会社は、代表取締役から平社員まで、待遇は全くフラットである。何かの作業をやったときの取り分などを決めたルールは厳密に全員に対して平等に割り当てられている。本人に能力があれば社長よりも稼ぐことだってもちろん可能だし、逆に是非そうやって稼いで貰いたいと思っている。残念ながらうちの会社などはまだまだ弱小会社でなかなか社員も増えてこないのだけれど、実力主義の中で能力を発揮したいと思っている人に対してはいつでも門戸を開いている。このように、「社会に見当たらないなら、作ってしまえ」というのも一つの手である。例えば株式会社リバネスという会社は、社長である丸氏が「やりたい研究があるのに、それが大学や大企業では思うようにできない。できるようになった頃にはもう管理職である。それでは面白くないから、自分で会社を作ってしまえ」と考えて作ってしまった会社である。

社会が変わっていく方向は既に明確になっている。そのスピードを決めるのは日本の労働者自身であり、そういう場を作っていきたいと考えている起業家でもある。


*注意 本エントリーは最終稿ではありません。引用等は自由にしていただいて構いませんが、内容が保持される保証はありませんので、その点ご了承願います。

追記:
2008/6/30
池田信夫blogさんが「ノンワーキング・リッチ」というエントリーをアップしてます。「ノンワーキング・リッチを早期退職させろ」という部分は非常に強く共感するので紹介しておきます。

#ただし、その人たちに「起業させる」というのはどうかと思います。多分、池田さん自身も本気でそんなことは考えていないんじゃないかな、とも思います。行き先ナシに「退場させろ」では誰も退場しないですからね(笑)。方便みたいな感じで書いているんじゃないかな、と。こういう大人の姿勢は見習いたいですね。

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