アフガニスタンでNGOのスタッフ、伊藤さんが拉致され、射殺された。
伊藤さんは、語学もだめ、農業に関する経験や知識も不足していると自覚しながらも、アフガニスタンを緑豊かな国に戻す手伝いをしたい、とアフガニスタンに行き、そこでアフガニスタンの人とともに働いていたようだ。
高い志を持った人が、その途中で、他者の暴力によって一生を終えさせられてしまうというのが世界の現実なのだろう。
こうしたニュースに触れても、「自分も誰かの役に立ちたい。でも、何をしたらいいかはわからないけれど」「誰かが伊藤さんの遺志を継いでくれれば」ぐらいしか考えられないのが僕を始めとした日本人の大多数なんだと思う。
当たり前だけど、日本の政府高官は遺憾の意を表明するぐらいが精一杯。一方でタリバンの報道官は「このNGOが住民の役に立っていたことは知っている。だが、住民に西洋文化を植え付けようとするスパイだ。日本のように部隊を駐留していない国の援助団体でも、われわれは殺害する」と述べている。こうなってしまうと、「じゃぁ、やめとけ」ということになる。
しかし、それでもアフガニスタンには、貧困で苦しむ大勢の生活者がいる。
僕達のまわりにコンビニやハンバーガーショップが存在するのと同じようなレベルで、生活の中に普通に戦争が存在する国に、貧困で苦しんでいる人たちがいる。そうした現実にあって、死を覚悟しながら、その中に希望を見出そうとした「地上の星」がひとつ消えてしまった。
これまでの数日間、何人かのこの件について軽く話をしてみたが、どうやら、日本人的な感覚では「誰に責任があるのか」というところになりがちのようだ。しかし、亡くなった伊藤さんは、恐らく「誰が悪いのか」ということには興味がなかったはず。アフガニスタンに貧困がある理由にもそれほど興味がなかったのではないか。「貧困に苦しむ人が存在するから、そこに行って何かをしたい」という使命感。これが人の何十倍も強かったからこそ、死の恐怖に負けず、現地で働いたんだと思う。
僕はヘタレだから、自分の命を危険にさらしてまでアフガニスタンに行って何かをするなんていうことはできない。ただただ、伊藤さんの可能性が暴力によって根こそぎ刈り取られてしまったことを残念に思うだけである。
世の中にはきっと伊藤さんのような地上の星がたくさん存在しているんだと思う。彼らの価値は北島選手やソフトボール日本代表に比較して何ら遜色がない。
別に、そういう人たちにもっと光を当てるべきだとか、国民栄誉賞にふさわしいとか、そういうことを言いたいのではない。僕達は、そういった日本人が存在しているということをきちんと胸に刻んで、その上で自分達のできることをやっていくべきだと思う。何しろ、伊藤さんのことを忘れてしまってはいけないと思う。このブログでは滅多にこの手のネタは書かないのだけれど、自分にとっての備忘録として書いておく。