しかし、残念ながらいくつかの点で欠落している視点があって、惜しい、という印象です。
まず、全体を俯瞰しての立ち位置が明確でなく、途中でそれが変わってしまっている印象を受けます。客観と主観を複雑に混合させてしまっているので、途中で何がなんだかわからなくなってしまい、読み物として、熟読するのが苦痛になってきます。これはブログにおいて数日にわたって五月雨的に、思いついたままに書いていることに原因があると思われるので、最初から全部リストラ(再構築)して書き直してみたらどうかと思います。ちなみに僕は関連エントリーを一通り(といっても、中盤以降はかなり流し読みですが)読んでみたんですが、忍耐力のある人ならなんとか全部読めると思います。
さて、ではどのあたりが問題なのか、ということなのですが、大きな問題点は二つあって、そのうちのひとつは
もちやフグのように伝統食品なわけでもない。
というところで思考停止してしまったことです。これは逆に言えば「もちやフグは伝統食品なので、それを食べて死んでも仕方がない」ということなのですが、これはもちろんそのとおりです。ただし、「伝統」には、「それを食べ物として扱っても構わない」ということだけが含まれているわけではないです。食品は、長い間の試行錯誤で食べられるものと食べられないもの、そして、食べると危険なものに分けられてきています。もちやフグは、長い伝統で食されてきたことによって、同時に「それを食べて死んだとしても仕方がない」という伝統も築き上げてきています。そして、この伝統は、次のようなものに一般化できます。
「食品とは、絶対に安全というものではない」
「ある一定の頻度では、それを食べて死ぬこともある」
「それを食べて死んだとしても、それは自己責任の範疇である」
この暗黙知は、「もち」や「フグ」に個別具体的に限定されるべきものではありません。ここで得られた知見はその後登場してくるであろうさまざまな食べ物に対してフィードバックされていくべきものです。それができることで、人間は猿や馬や鹿と差別化されます。「もちやフグは伝統的だから」で特別扱いして思考停止するのは、既得権者を特別扱いする旧態依然とした考え方に相通じるところがあると思います。
次にもうひとつの問題点。それは産業育成という視点からの検討が完全に欠落している点です。マンナンライフのような中小企業は日本の産業全体から見ればそれほど大きな影響をもつ会社ではありません。だから、今回の件で結果的に倒産に追い込まれたとしても、近視眼的にはそれほど大きな影響を及ぼしません。したがって、「倒産するかも知れないけれど、規制しちゃえ」と考える人がいても不思議ではありませんし、実際、野田聖子氏などはそういう考え方のようです。しかし、長期的な視点では話は全く異なります。今の日本はイノベーションが非常におきにくい状況にあります。僕は経産省にいたとき、それをどうやって引き出していくのかを考えていたわけですが、そのときのひとつの結論は、「世の中に山ほどある規制をどんどん廃止していくことが必要」ということでした。廃止は困難だとしても、抜け道を見つけたり、ハードルを下げたりして、産業が活発化するように環境を整備することが、新規産業の育成には不可欠だと感じていました。
今の景気対策などを見ていてもそうですが、日本人はすぐに短期的に効果を発揮するような、一種のドーピングをやりたがります。これは役人の特定部署に在籍する期間が長くて3年というのと無縁ではありませんが、とにかく短期間で成果がでることをやりたがります。逆に、長期的な視点での政策というのは考えたがりません。
しかし、ドーピングは薬の効果が持続している間しか役に立ちません。それを繰り返していてもやがては薬代がそこをつきます。そして、ドーピングをやめてしまったら元の木阿弥です。そんな社会を作ってきたから、今の閉塞した日本があるというのが僕の持論です。個別の企業はそれぞれ個別で考え、新しいものを生み出していくことが必要なはずです。そして、そうした一つ一つの末端の努力が日本の活性化につながっていくと信じています。
今ここでマンナンライフを叩くことは、感情的な人間達のガス抜きには間違いなくなります。「可哀想に」と思っている人たちはそれによって慰められるでしょう。しかし、ただそれだけのことです。そのマインドは日本を情緒的にすることはあっても、豊かにすることはありませんし、発展させることもありません。日本の社会はその間に着実に衰退に向かっていきます。「結局小さい会社は叩かれてオシマイか」となってしまうからです。みんなが合意できる量のリスクは社会で吸収しつつ、新しいイノベーターたちの登場に期待していくべきというのが僕の考え方で、マンナンライフへの圧力というのはこの考え方に真っ向から反するのです。
「PSJ渋谷研究所X」さんの一連のエントリーを読んで「これはちょっとね」と思うのは大きくこの二つですが、個別に書いていけばさらに色々な点が出てきます。面倒なので、一番最初のエントリーについてだけ気がついたところを書いてみます。
たとえば、「食べたときのリスクとベネフィット」を論じると同時に、「ベネフィットが得られるものと、リスクを負わされる対象の不一致」に言及しています。ところが、後者を述べるのであれば、「じゃぁ、タバコを丸呑みしてニコチン中毒死する子供はどうなるの?」ということになります。タバコを吸って嬉しい人と、タバコを間違って呑んで死ぬ子供は間違いなく別物です。だから、後者の議論をするのであれば、こんにゃくゼリーはタバコと同列で扱うべき対象になるはずです。しかし、タバコは食べ物ではないですから、このエントリーにおいては一番最初に議論の対象外に置かれています。身の回りのものにおいて「口に入れたときのリスク」を論じるのか、「食べ物として存在するもので死ぬリスク」を論じるのか、このあたりのスタンスに統一性が感じられないわけです。
GIGAZINEの理屈だと「年に3件しか死亡事故のないフグの方が安全」とかいうバカな話になる、食べる頻度とか量も考えないと、という指摘。
という部分も違和感があります。これは別サイトのリンクを引用しての部分ですが、リンク先のエントリーは、「GIGAZINEの理屈」についてコメントしていて、僕もその内容については同意します。ただ、リンク先のエントリーはGIGAZINEの理屈が変だと言っているだけで、それが正しいとか、間違っているとかは一切言及していません。「既存資料ではわからない」という立場です。実際、消費量、子供が食べている頻度、高齢者が食べている頻度などを含めて詳細に調査しなければならない話で、「こんにゃく入りゼリーも、実際に食べる頻度を考えると、窒息事故を起こすハザードが大きい。」という結論は暴論にも等しいと思います。少なくとも、リンク先のサイトではそんなことは書かれておらず、「わからない」と書いてあります。リンク先のサイトが「GIGAZINEの理屈がおかしい」と論じているのと全く同じ事をやっています。もちろん、ベクトルの方向だけは逆ですが。
習慣性があって、なくなると困る人がいるだろうというわけでもない。
これはもう完全に主観なので、議論する価値もないです。物事は極力客観的なスタンスに立って考えるべきです。
しかし、「なくなると困る」「代替品を探すのも難しい」という程に大きなベネフィットを受けている人というのは、いったいどれぐらいいるのでしょう。愛好家とメーカーぐらい?
これも主観の塊です。たとえば、蒟蒻畑が年間50億円以上の売上があるとすれば、この数字は客観的なデータです(実際は60億円程度?)。で、これだけの売上があるものについて、「愛好家とメーカーぐらい?」でオシマイにしてしまうのであればそれはそれでひとつの見識ですが、少なくともその程度の検討はして欲しいところです。
EU、韓国、米国ではゼリーへのこんにゃく使用をすでに禁止しているようです。
この横並び感覚も良くわからないところです。たとえば、EUの規制をよしとするなら、日本で売っている食玩とか、食品をまねた食べられないもの(模倣品)などは一切販売ができなくなるかもしれません。このあたりについては彼岸と此岸の文化の違い、社会の違いなどをきちんと考慮する必要があって、「海外ではどうだから」という主張は海外の価値観を一方的に認めた先例主義で、思考の放棄に他ならないと思います。これが許されるなら、日本のタバコの税金はもっと高くするべきかも知れないし、公的年金なんてすぐにやめるべきかも知れないし、鯨を食べるのもさっさと辞めるべきかも知れません。
「わずかながらでも犠牲者を出しながら、この製品を作り続けること、売り続けることに、どういう意味があるの?」と思えてなりません。
ということで、この結論は「色々書いている割には随分と近視眼的だなぁ」というのが僕の考えです。
「食の安全性に対する一般論」、「産業振興」の二つを踏まえた上で、客観的データをもとに論じたらもっと良かったのに、と思います。
末筆ながら、「餅とこんにゃくゼリーによる死亡事故の現状を比較して、餅は現状維持、こんにゃくゼリーは製造禁止」という結論を論理的に導くことは、ほぼ不可能に近いくらいに非常に難しいことだと思います。もしそれが可能なら、是非読んでみたいと思います。そしてそれが感情論などではなく、理路整然としたものであるならば、僕は宗旨替えすると思います。