2009年07月14日

臓器の移植に関する法律

この法律が施行されたのは1997年10月16日。施行後3年を目処に見直しを、といわれていたのに、ようやく昨日になって改正されることが決まった。

もうちょっと紛糾するのかな、と思っていたのだけれど、意外とすんなりA案で参議院も可決した。いや、国民的には「どっちでも良いかな」ぐらいのことだったんだと思うのだけれど。これで、脳死は人の死ということが国民的合意事項となったわけだ。

でもまぁ、中には「脳死だって生きてる」と思いたい人はいるわけで、そういう人のためののりしろも用意されているので、個人的にはかなり妥当な結論になったと思っている。何もいわないなら、脳死になったらおしまい。でも、それじゃぁ嫌だっていう人は、生きているうちにそのことを明示しておけ、と。

そもそも、法律を制定したにもかかわらず実際の臓器移植が全く進まなかったのは、法律に対する理解が足りないとか、死生観に対する考え方が異なるとか、そんなことじゃなくて、単なる無関心だと思う。自分が脳死状態になるとも思っていないし、自分や自分の親戚が臓器移植が必要な状態になるとも思っていない、そういう想像力の欠如が根本にあると思う。想像力が足りないというのは日本人の大きな特徴でもあるわけで、そうした中、デフォルトでは「心臓が止まったら死です」なのか、「脳が活動を停止したら死です」なのかは、決めの問題。非常に重要な判断だと思うのだけれど、ここでもまた無関心が働いて、結果的に比較的すんなり「脳死は人の死です」ということが法律的に明確になってしまったわけだ。何しろ、人工心臓なんていうものがある以上、オリジナルの心臓が止まっても機械的に、半永久的に心臓だけを動かすことは可能になってきているわけで、そうした中、「大事なのは心臓じゃなくて脳です」となったのは当然といえば当然かも知れない。

脳死状態になってしまって手の施しようがない、という場合、親戚などの関係者が延命措置を強く望むケースと、できれば臓器を提供したいと考えるケースと、どちらが多いのかと言われれば、感覚的には後者の方が多いんじゃないかなぁと想像するのだけれど、どうなんだろう。

また、時々「難病で、海外での臓器移植しか助かる道がない」みたいな話がマスコミで流れるんだけれど、その背後には「誰かがドナーとして臓器を提供している」という事実があるわけで、いくら想像力に欠ける国民性の日本人であっても、ひとこと「でも、これ、背後にドナーがいるんですよ」と言えばさすがにその事実には気がつくはずだ。見てみぬふりをしているのかもしれないけれど、何にしても、脳死状態であとは心臓が止まるのを待つだけの命と、臓器移植さえできれば未来に可能性を持つことができる命であれば、結局のところ重さには軽重ができてしまう。それで、ここで「こちらは軽いんです。こちらは重いんです」というのを認めてしまうことを日本人は恐れるし、心理的に受け入れることができないから、「そもそも、脳死は死んでるんですよ。重い、軽いじゃないんです」としてしまうことにした、と、まぁそういうことなんだろう。

別にそれは悪いことじゃないし、個人的にはもっと早く決められれば良かったのになぁ、と思う。いくら議論をしたって、結論は一緒なんだよ、多分。これは、議論したら意見が変わる、という性質のものじゃない。人間それぞれが生きてきて、その中で形成されてきた価値観だから、よっぽどのことがない限り変わらない。だから、「党議拘束を解いて、個人の判断で」ということになる。議論しても変わらないし、党内で意見を統一することもできないから(あくまでも、この問題を真剣に考えているなら、だけれど)。今の国際的なコンセンサスの中で、「臓器移植が必要なときだけは脳死が死になる」っていうのはちょっと無理がありすぎる。じゃぁ、なんでいつまでも議論しているかって、それは、論理的な部分ではなく感情的な部分で、反対派は絶対にいなくならないから、その人たちの気持ちに配慮しよう、というだけのこと。換言すれば、決まっている結論に対してどういうプロセスを踏むのか、を考え続けた10年間だったわけだ。

今後重要なことは、国民それぞれが他人事ではなく、自分のこととして「死」を考えることだろう。子供のときから「死」に対峙して、自分なりの考え方を持っておく必要がある。これは非常に重要なことだし、各人にとって利があるはずだ。

考えてみると、僕の場合、高校生のときに宮本輝の一連の小説を読み、それから大学生にかけて村上春樹の小説を読んだ。「錦繍」と「ノルウェイの森」には表現こそ異なるものの、「死」に対して非常に似たような見解が述べられていて、「あぁ、なるほど」と腑に落ちた経験がある。その結論が正しいとか正しくないとかではなく、そうやって考えることが重要なんだと思う。

今回決まったのは、「デフォルトは脳死が人の死」ということであって、これは別に強制ではない。どこからが生きていて、どこからが死んでいるのか、この判断は当然のことながら各個人にゆだねられるべきだし、それを判断する権利は憲法に明記しても良いくらいの基本的なものだと思う。何にしろ、今まで考えずに済んでいた重要な判断について、国民それぞれが考える機会を得ることができた、という意味において、今回の法律改正は非常に高く評価されるべきだと思う。

ちなみに僕は1999年3月9日に臓器提供意思表示カードに記入してあって、心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、その他(全部)にマルをつけてある。僕はこのカードをいつも運転免許証と一緒にして持ち歩いているのだけれど(僕が脳死になるとすれば、多分自動車事故だろうから、と思って)このカードって、もういらなくなるのかな?ま、別に持っておいても邪魔になるわけじゃないから、わざわざ捨てたりはしないけれど。

CA3B0461

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