2009年09月30日

ブログでバイオ 第65回「博士の就職難に関する今の個人的かつ現実論的考え」

まず最初に書いておくけれど、仕事がらみで精神的に参っている人は以下の文章を読んではだめです。

「キチガイ」という言葉は放送禁止になっているけれど、まことしやかにささやかれているその理由は、

1980年代に回復治療期に、テレビ・ラジオでこの語を聞いた精神障害者がショックを受けることにより、治癒を妨げる恐れが指摘されたことから、指摘を受けた関西の準キー局である毎日放送が使用の自粛を呼びかけた。

(出典:ウィキペディア「きちがい」

といったもの。テレビや新聞などのご立派なメディアが自己規制するのは勝手なのだけれど、その基準に合わせる気は全然なくて、僕はこのブログでも普通に「キチガイ」という言葉を使っている。回復治療期にある精神障害者の方々がどの程度の数いるのか僕は知らないけれど、そういう人はこのブログは読まない方が良い。同じように、仕事に関して悩みを抱えていて参っている人にとっては僕の文章は毒になるのかも知れないので、危ないな、と思うなら、これまたお勧めしない。

さて、ここまでが注意書き。続いて、前書き。

正直、僕はTwitterがそれほど面白いとも思わないし、メディアとしての長足の成長というのも微妙だと思っているのだけれど、情報消費社会の中において情報のハブとしてはそこそこに機能すると思っているし、ある特定の場面ではビジネスユースも可能だと思っている。また、RSSを使ってきっちりフォローし続けるブログと違い、要は電車で隣に座ったサラリーマン二人組の愚痴みたいなもので、聞こえてくれば面白いこともあるけれど、わざわざメモするようなことでもない、そんな情報の塊なので、スルー力さえあれば時間つぶしには格好の素材でもある。僕にとっては、少なくとも、ミクシィなんかよりはずっと使えるツールなので、ミクシィはすっかりアクセス頻度が落ちてしまった。渋谷のハチ公前交差点で信号待ちをしている人たちが何を考えているのかわかっちゃう、みたいなものだから、デスノートの余命が見えちゃうのよりもずっと混沌としているわけだけれど、「今、スペイン坂のスタジオで堀北真希がラジオ生出演しているらしいよ」なんていう情報はあっという間に伝達するわけで、ボーダーがあいまいな緩やかなクラスターの中でのムーブメントみたいなものは結構把握できる。僕はTwitterを始めたばかり(というのは正確ではないか、ずいぶん前(2007年6月(笑))にアカウントだけは取っていた。利用方法が思いつかなかったので、その後長い間放置してあって、まじめに使い始めたのが8月ぐらいから?)なので、適当に知らない人をどんどんフォロー(つぶやきをウォッチしておくリストに入れること)しているのだけれど、中にはリアルな知り合いなどもいて、どうしてもコミュニケーションの密度はそちらの方が高くなる。そんなTwitterをつらつら流し読みしつつ、ちょこっとかわしたやり取りなんかを通じて、博士の就職難については新しく見えてきたものがないわけでもない。ほとんどは以前から書いていることの繰り返しなんだけれど、整理も含め、考えをざっと書いてみる(本当はTwitterで書くべきなのかも知れないけれど、つぶやくにしては長すぎる(笑))。要は、改訂版という奴だ。

以下、理系の博士について。ここからが本論。

もう、僕は博士やポスドクの就職難問題にはあまり興味がないのだけれど、世の中の一握りの人たちはそうでもないみたいで、まだ博士の就職がどうのこうのとやっている。それで、そんな議論を見ていたら、「東大には博士の就職問題なんて存在しない」とか、「東工大には博士の就職問題は存在しない」という話があって、ほらね、という感じである。要は、就職できる、就職できないというのは、博士なのか、博士じゃないのか、というところがポイントなんじゃなくて、そいつが使えるのか、使えないのか、ということ。僕個人としては東大や東工大の博士であっても無条件に評価する気はさらさらないけれど、社会全体では評価するという方向でコンセンサスが形成されているならそれで良し。で、「優秀な博士」は、普通に就職できるわけだ。これは、博士じゃなくても一緒。東大とか東工大の学部卒や院卒はその他の大学に比較して就職しやすいという現実は、必ずあるはず。でね、東大の大学院とかは、学位取得後の就職はそれほど困らないみたいなのに、定員確保には四苦八苦しているらしい。要は、東大の博士は十分な席があり、東大は受け入れたいと思っているにも関わらず、入学するためのハードルを越えられる人が少なくて、定員が確保できないということですよね?ものすごく正論を言えば、博士課程なんてやりたい研究の内容で進学先を選ぶべきだとは思うけれど、就職のことを考えての選択も、まぁ、ありと言えばありなのだろう。というか、日本の社会の一員として生きていくことを考えるなら、将来をきちんと設計した上で進学すべきであって、現在の日本では「研究の内容で進学先を選ぶ」なんていうのは空論だということになる。

そんなことを考えていて書き始めたのがブログでバイオの65回目である。

大学院進学は乱暴に次の4つに分類することができる。

1.やりたい研究テーマで東大の大学院
2.看板を考えて東大の大学院
3.やりたい研究テーマで東大以外の大学院
4.学力がなくて仕方なく東大以外の大学院

2や4が存在することに対して、おそらく社会の受け止め方は2に対しては嫌悪感を表明し、4については仕方ないと考えることが一般的だと思う。正直に言って、2に対して眉をひそめるような人を僕はあまり好きではない。いや、研究者としては2は駄目なんだろうけれど、人生を設計し、そのひとつの道具として「東大院卒」という看板を捉えるなら、そりゃそれでありだよな、と考えるのが僕のスタンス。僕はどちらかというと4のような存在について疑問に思う。やりたいことがあるのに学力が不足して東大に行けないなら、さっさとあきらめてしまった方が良いと思う。

東大がやっていることは、要は優秀だとわかっている人間を連れてきて、普通に教育して、社会に出しているだけ。これは、普通に考えれば当たり前のこと。難しいのは、「大して優秀じゃない奴をきちんと教育して社会に出すこと」だ。でも、東大の大学院はそういう能力(人的にも、カリキュラム的にも)がないから、優秀な人間しか取らない。このあたり、東大も「教育能力」という面ではまだまだ能力不足なのだろう。本当に「日本一の大学」と称するなら、色々人を連れてきて、凄い人間に教育してみろと思う(笑)。でも、やっぱ、難しいものは難しいよなぁ。それはもちろん僕もわかっている。能力はあるのだけれど、ちょっとしたハードルが越えられずに困っている人に、ちょこっと手助けして大きく飛躍させる、これは比較的簡単で、成果も出やすく、教える側の自己満足も得られる作業なので、僕なんかも大好きだ。一方、全然能力的に足りない人を、手取り足取りして一から教育して、最終的に一人前に仕立てることのなんと大変なことか。僕もできればそういう作業はやりたくない。

ちょっと話がそれたので戻すけれど、4つのパターンの中で、正直、困るのは3の存在。一般論的に言えばこのクラスターが一番まっとうなクラスターではある。でも、このクラスターは失業博士になる可能性が4同様非常に高いわけだ。「研究が好きなんです」という理由で進学するのはもちろん構わないし、ある意味理想的でもあるのだけれど、理想で飯は食えないという現実もある。お金持ちなら趣味で研究を続けるのも良いだろう。ただ、日本の社会で生きていくのは非常に難しい。研究で食っていこうと思うなら、現状では3は避けた方が良い。また、その現状はそう簡単には変わらない。ストレートに言えば、能力が高い人間が就職しやすいのは間違いがない。また、能力を見分けるための「人間のラベル」として、日本人は学歴を重視する。この傾向はアカデミアに近くなれば近くなるほど強くなると思う。たとえばうちの会社などは履歴書すら要求しないし、学歴などは何の参考にもしないが、大学の先生になるとかいうと当然のごとく履歴書を要求してくる。だから、将来苦労したくないならやりたい研究より東大というラベルが重要だ。世の中には「やりたいことがあるなら、それができる大学に行け」という人が大勢いそうだけれど、そういう人たちは将来仕事がなくなったときに仕事の面倒を見てくれるわけではない。無責任に理想論を提示しているだけだ。理想論は述べるのも聞くのも気持ちが良いのだが、それを唱え続けるだけで幸せになれると思ったら大間違いである。

ところで、人の能力というのはかなりの部分までが、相当に子供の頃に決まってしまっているような気もする。小学生のときに成績が良ければ、良い私立中学に入れる。良い私立中学は高校もエスカレーターで、東大、京大といった一流大学にも入れる可能性が高くなる。東大に行けば、東大卒という看板がもらえて、就職にも困らない。ちょっと外れてしまっているところからこのレールに乗るのは、かなり大変だと思う。少なくとも、最初からレールの上にいた方がずっと楽だ。

ただ、ひとつ例外があって、それは大学院からの東大デビュー。東工大、早大、理科大といった超一流じゃない大学を卒業してから大学院で東大に行く手段で、学歴ロンダリングとも言われる。でも、これだってどんどんやれば良い話。東大に入ろうと思えば、大学から入るより大学院から入る方が楽だというのなら、それで良いじゃないか。僕は東工大で学部から大学院に進学したけれど、研究室には理科大からの大学院生が相当数いた。また、東大からの大学院生も相当数いた。彼らは別にどちらが優秀というわけでもなく、一律にみんなそれなりに優秀だったと思う。一番見劣りしたのが僕も含めた内部の人間だった気もしないではない。何しろ、人生は長いのだから、大学受験という非常に短い期間に行われる単発的なイベントでその後の人生が完璧に決まってしまう必要はないはずだ。実際、日本社会はある程度まで最終学歴で見てくれるところがあるのだと思う(実際は最終学歴じゃなくて、大学入学実績で見ているところが多いかも知れない(笑))。だから、大学院から東大デビューというのはお勧めの作戦でもある。

東大は定員に足りてないらしいから、博士になって活躍したい人は、みんな東大に行けば良い。簡単な話だ。東大の博士なら食いっぱぐれる心配もないらしい(ただし、Twitterで聞いたレベルだから、本当かどうかは知らない。ま、中には就職できずに困っている人もいるかも知れない。でも、多分それはマイノリティっぽい)。将来失業したり、就職で困ったりしたくないなら、悪いことを言わないから、東大に行っておけ、と、そういうこと。東大の博士課程の定員がどのくらいなのか知らないけれど、ま、1500人ぐらい?石を投げれば理一に当たるとか言われていた僕の時代でも理一だけで1000人定員があったんだから、このくらいはあると思うのだけれど、何しろ、現状定員割れしているなら、どんどん東大行けば良い。それで、「いやー、学力がなくて、東大はちょっと」という感じの人は、将来、就職で苦労するのは当たり前ってこと。そういう人は、博士課程なんか行かずに、さっさと就職すれば良い。能力ないのに無駄に時間を費やして、博士なんていう何の役にも立たない看板を手に入れても全くの逆効果。みんなが東大に行って、東大にいけない人は就職ってことになると、地方の大学が困るって?そんなの知ったことではない。

ここからはちょっと学生サイドじゃなくて大学サイドの話だけれど、「就職は難しいけれど、人は欲しい」って、それは教育の対象として学生を見ているんじゃなくて、労働力として見ているってこと。地方の大学は、「どうしてうちの学生たちは就職で苦労するんだろう」って、真剣に考えるべき。でも、簡単に思いつく解決策はある。それは、「入試を難しくしろ。定員割れでも何でも良いから、とにかく難易度を上げろ」という回答。少なくとも東大並みに難易度を上げれば、社会の評価は必ず高くなる。ただ、そういう学生のレベルに見合っただけの研究環境を提供できるのか、という問題はある。あ、あと、本当に合格者がゼロになってしまう可能性は非常に高い。でも、仕方なし。「そんなことできるわけない」という意見も当然出てくるだろうが、「それなら、大学が必死に努力して自分の大学の博士たちが就職に困らないようにしろ」ということになる。博士の就職難というのは、当然ながら大学にも責任はあるのだ。念のために書いておくけれど、努力とは、就職の世話をすることではない。「民間企業が採用したくなるような人材に育てる」努力である。

さて、大学の立場からの話は適当に終わらせて、再び大学院生の話。将来の人生設計を考えつつ、大学院への進学を考えるなら、選択肢は次の2つしかない(かなり乱暴なのは承知の上)。

1.やりたい研究テーマで東大の大学院
2.看板を考えて東大の大学院

ちなみに人生設計を考えない選択肢としては、こんなのもある。

3.モラトリアム、あるいは趣味、遊びとして大学院に進学(ただし、もちろん就職は難しくなる)

そして、どれも無理、という場合は4つめ。

4.それ以外はないから、研究職はあきらめる

注釈:実際には東大だけじゃなくて、京大、阪大、九大、東工大あたりも該当するのかも知れないけれど、ボーダーがどこにあるのかは、僕は専門家じゃないので知らない。

社会は、生産できる人間、付加価値を作り出せる人間を必要としているわけで、それは研究分野でも一緒。それができないなら、研究分野は難しいってことで、さっさとあきらめないと。

こういう話をしていると、「それじゃぁ、すそ野が育たない」とか言い出す人がいるのだけれど、そういう人たちが失業した博士の面倒を見てくれるわけじゃない。その人たちは、「この可哀想な人たちを何とかしてください」とかお願いするだけ。頑張っても、せいぜい国にお願いするレベル。でも、この国にはもっと可哀想な人たちが山ほどいる。

それでも、「死屍累々の脱落博士達の向こうにこそ科学の発展はある。だから、そういう失業博士が生じてしまうのは我々が支払うべきコストだ」という考え方もあるとは思う。ただ、今の日本ではまだそういうコンセンサスは形成されてない。どちらかといえば、社会的なコンセンサスは「裾野は広い方が望ましい、ただし、予算に限りがあるから、大学院の入り口は狭く」だと思う。そうした中、文科省が「ポスドク1万人」とか言い出したのは確かにおかしいのだけれど、上にも書いたように、博士という看板を背負った人の人数が多いのが問題ではなく、博士という看板を背負った人たちの付加価値生産者としてのレベルが低いことが問題なのだ。それは教育の質の問題かも知れず、よくよく検討する必要はあるのだけれど、目の前にいる失業博士達については「もう仕方ないですね。食っていくために何かしないとね。あなた、何ができるの?」ということになる。少なくとも、試験管やピペットマンを持つような仕事はあきらめた方が良い。それから、東大以外の大学院に行くということは、そういう失業博士生産のレールに乗っているという意味でもある。これから進学する人たちは当然そのことを理解したうえで進学すべきだ。結局のところ、日本においては東大以外の大学院は、一部のエリート研究者を生産する過程の中でこぼれ落ちた人たちを一時的にプールしておくだけの存在、ということである。問題は先送りされ、重症化するだけなので、可能ならさっさとレールを降りた方が良い。

前にもこのブログで書いたけれど、大学としては学生がいた方が収入が増える。教授とすれば労働力が多いに越したことはない。文科省も予算が取りやすくなる。学生は好きな研究ができる。誰も損しないんだから、この中には「博士を量産しましょう」という考えにストップをかける人はいない。それから、もともとのところで、ポスドク1万人計画とか言ったって、1万人全員が使えるなんて、文科省だって思ってない。文科省、および研究のリーダーの考え方は、それだけいれば、使える奴も増えるはず、というだけのこと。使えない奴をどうするかなんていうのは、その存在自体は認識しているものの、処遇については念頭にない。人数増やせば、どうしたって使える奴よりも使えない奴の方が増えるのは当たり前。だって、基本は正規分布なんだもの。上のほうを切り出せば、使える奴が1人増えるなら、使えない奴は3人、4人増える。公言しなくたって、そのくらいのことは誰でもわかる。そうまでしても、優秀な人間を確保したかったということで、まぁ、それはそれで良いんじゃないかと思う(好き嫌いは別にして)。問題は使える奴1人を生み出すために生産されてしまった数名の使えない奴ということになる。文科省的な考えは、世の中は人材不足だから、働く場所はいろいろある、というぼんやりとしたものだったのかも知れない。中の人じゃないからわからないけれど。まぁ、実際のところ、今の社会には仕事はたくさんある。僕の会社でも人材は絶賛募集中だ。ただ、研究とは無縁なだけ。そりゃ、能力がないと判断されちゃったら仕方がない。研究で飯を食っていくのは絶望的だろう。以前ならともかく、今は「優秀な研究者をどんどん輩出しましょう」という政策方針なんだから、あとからあとから優秀な奴が出てきて、いつまで経っても優秀じゃない人間のスペースは生まれない。それでもどうしても研究がしたいなら、あとはもう自分で会社を作って、自分で何とかするぐらいしかないだろう。実際にそうやって会社を作った人だっているわけだし、ドクター中松なんていうのもそういう種類の人なんじゃないだろうか。詳しくは知らないけれど。

野球だけやって生きていきたい、マージャンだけやって生きていきたい、将棋だけやって生きていきたい、ラーメン食べるだけで生きていきたい、どれもこれも僕の周りにいた人たちだけれど、研究をやって生きていきたいというのもそれと全く同じレベルの話。それで生きていける人ももちろん存在するけれど、そんなの国が保障するものでもないし、それが実現しなかったからと言って誰かが面倒を見てくれるわけでもない。結局は、その人の能力次第。

ところで、中盤でちょっと触れた個人の能力について。みんなあんまり口に出さないけれど、人間の能力というのは生まれつき決まっていることってかなりあって、もちろん努力をすれば生まれつきの部分はかなりのところまでカバーできるものの、同じ努力をした場合にはやはり到達点はどうしたって違うと思う。また、同じ到達点に行くために必要な努力の量というのも、人によって違うし、その違いは生まれつきの部分がかなりあると思う。人の能力を大雑把に分けてみるとたとえば下のようになるかと思うのだけれど、その多くは子供のときに規定されてしまっているケースが多いと思う。

頭の良し悪し
ベースになるのは並行処理能力。複数の作業を同時並行でできる人は、能力の分配を適切にできる。これがいわゆる「頭の良い人」。

物覚えの良し悪し
基本的な要領の良さ。同時に過去の経験の応用力も反映される。新しい作業にあたったとき、それをすぐに身に着けること、および、過去の経験で身に着けている能力を引き出しから引っ張り出してきて、応用する。

努力できるかどうか
そのまま。性格的な問題なので、3歳ぐらいまでに決まるのかも。生まれつきの部分も少なくないはず。ただ、「飽きっぽい」というのは「固執しない」ということでもあり、どちらが良いかというのは微妙。

記憶力の良し悪し
そのまま。文系、語学系に影響力大。理系でも化学、生物などは影響を受ける。「好奇心」が記憶力に影響を及ぼすこともあり、また子供の頃のトレーニングも効果がある可能性あり。

語学力の有無
比較的基本的能力だが、幼少時に教育を受けているかどうかによって影響大。

計算能力
先天的なのか、後天的なのか、不明。ただ、そろばんやインドの子供の計算力などからも明らかなように、トレーニングでかなりのところまで到達できる。

論理的思考力
将棋などを見ていると子供の頃からのトレーニングでレベルアップ可能。しかし、大勢の将棋の棋士を見ていると、トレーニングで到達できる場所には限界がある。

調整能力の有無(微妙な手加減とか)
物覚えの良し悪しと重複する部分あり。脳みそが命令したとおりに指先や体を動かせるかどうか。「器用」「不器用」という言葉で表現される。

運動能力
ホルモンの影響が大きいか?人種間でも大きいが、どれもこれも生まれつき。ただ、その生まれつきの能力を活かすためには当然トレーニングが必要。


「人間は努力次第」という言葉は良く聞くけれど、「能力なんて、ほとんど生まれつきか、子供のときに決まっている」という話はあまり聞かない。なぜこういうことをみんな大っぴらに言わないかって、そりゃ、言ったところでどうにもならないから。「そりゃぁ、生まれつきだよ」で済ませたら、何の生産性もない。それよりは、「努力すればなんとかなる」の方が、ずっと生産的。そういうわけで、99%の汗なんていう話がいきわたる。それで、当然努力したって駄目なケースは多々あるわけだけれど、そういう場面になったとき、米国人は「運がなかったね」となる。一方で、日本人は「努力が足りないからだ」となってしまう。実際、努力が足りないケースも多々あるとは思うのだけれど、精神論じゃどうにも越えられないものもあるわけで、「運がなかったとあきらめなさい」という考え方も多くの場面で必要だと思う。今の時代は、「駄目なものは駄目。あきらめたらそこでおしまいだから、気力が続くならしがみつきなさい。でも、あきらめるのももちろんあり。能力的に足りない部分は、努力だけじゃどうにもならないところもある。自分でできる範囲で頑張って、駄目なら別の生き方をしたらどうですか?」の方が良い気もする。涓滴岩を穿つなんて頑張らせるから、うつ病になっちゃうんじゃないのかなぁ、とも思う。突き詰めて言えば、努力なんていうのは人に言われてするものじゃない。自分で必要だと思うからやるもの。そして、その見返りは過程から得られるものと結果の両方。それから、成功するには才能も運も必要。努力だけじゃどうにもならないこともある。負けたときは負けたときなりに、潔く撤退し、次に備える必要がある。このあたりで合意できるような教育を子供の頃からしておく必要がある。

#僕は生まれつき語学の才能がないので、語学はあきらめてます。

ということで、そろそろ結論。失業博士になりたくないなら、東大の大学院以外は行っちゃだめ(もちろん、家が資産家だったり、金持ちの玉の輿に乗る予定があるなら話は別)。東大の大学院に行くだけの能力がないなら、それは生まれつきだから、もう研究者はあきらめろ。間違って博士になっちゃった失業博士は、多分一生研究者としてのポジションはまわってこない。さっさとあきらめて、別の方法で食べていくことを考えろ。

念のために書いておくけれど、僕は「努力なんかしなくて良い」と言っているわけではない。少しでも良い暮らしをしたい、少しでも裕福な家庭を築きたい、少しでも会社を大きくしたい、少しでも社会貢献したい・・・・・、モチベーションは色々でも、それを実現するための努力はものすごく尊重されるべきだし、そうやって努力をしていく人たちと一緒に仕事をしていきたいと思っている。言いたいことは、「研究者」という座席は誰でも座れるように十分な数が確保されているわけではなく、そこにつくためにはかなりの部分の才能と、努力と、運が必要だということ。才能がない、努力し続けることができない、運がない、それぞれの事情はあるだろうけれど、駄目なら駄目で、どこかであきらめることも必要だ。そして、別の道に向けた努力を開始した方が、ずっと生産的だということ。そして、「俺って、研究者として通用するのかな?」というひとつのわかりやすい目安は、東大の大学院に行けるかどうか、ということだ。

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この記事へのコメント
初めまして。
通りすがりの大学院生です(笑

私は間違って(わざわざ東大以外に)進学しちゃったクチですが
全く仰る通りだと思いますよ。
でも進学をきめる際ここまで就職が困難であるとは思わなかった
というのも本音です。
身を置いてきた環境とバカみたいに純粋(=世間知らず)な性格ゆえに
キャリアビジョンというものが全くなかったので。

それはそれで反省し 今は現実のきびしさも受けて立ってるわけなので
この際私にとってはどうでもいい事です。
親と国のお金を使ってやりたかった事をやりつくした!と思っていますし
後になって進学してたら…なんて甘い事考える余地がない分
潔く生きていけると思います。 身銭も潔くつかないかもですが(笑

ちなみに私の専攻は医学(具体的な研究領域としては薬理・生理学分野)ですが
コラーゲンはアミノ酸として吸収されるけど
その後体内でコラーゲンの生成が促進されるとかされないとか。。。
ソースが化粧品マニアの方からなので
ただの理系ツッコミに対する方便なのかもですが
ちょっとマジ?それどうやって取ったデータ??みたいな 惹かれる話題でした。
私もそのうち調べるつもりですけど もしご興味があれば(笑
Posted by neyo at 2009年09月30日 22:01
> 身を置いてきた環境とバカみたいに純粋(=世間知らず)な性格ゆえに
> キャリアビジョンというものが全くなかったので。

このあたりは大学側の責任も大きいと思います。でも、大学も、大学の先生も、馬鹿みたいに「国にも責任があるのだからなんとかしてくれ」というばかり。大学が自分たちで雇ったり、大学の先生が辞めて席をあけたりするわけではないんです。

それに、民間企業になんとかしてくれというのもお門違い。まぁ、大学院生を雇用したら法人税半額とかだったらみんなやるかもしれませんが(笑)そこまでする価値はないと思います。民間企業だって馬鹿じゃないです。雇わないのにはそれなりの理由がある。

> 親と国のお金を使ってやりたかった事をやりつくした!と思っていますし
> 後になって進学してたら…なんて甘い事考える余地がない分
> 潔く生きていけると思います。

「研究」という部分のこだわりを捨てれば、いくらでもなんとでもなると思いますよ。就職難博士がみんな、「そうか、研究をあきらめれば良いんだ」と気がつくと、また競争が生まれてしまいますが、まだそういう感じでもないみたいですから。


> コラーゲンはアミノ酸として吸収されるけど
> その後体内でコラーゲンの生成が促進されるとかされないとか。。。

そのあたりの話はこちらのコメント欄あたりが参考になるかも知れず、ならないかも知れません。

http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/50828263.html#comments
Posted by buu* at 2009年10月01日 00:22