知り合いが、ツイッターで「医者に『肝硬変の一歩手前なので酒を辞めたほうが良い』とアドバイスされた」と書いていたのがしばらく前。そして、今度は「一週間我慢したけれど、やっぱり無理なので、日本酒二合とか、ビール一杯とか飲んでいる」と書いていた。
僕は、6歳の時に父親が死んでいるのを筆頭に、身の回りで若くして死んでいるのを何人か見てきている。大学スキー部後輩に限っても3人がすでに死んでいる(事故1、過労死1、自殺1)し、仲の良い一橋大スキー部の後輩でも過労死した人間がいる。自殺はともかくとして、生きていたいと思っていたにも関わらず、何らかの要因で若くして死ななくてはならなかった人間たちを見てきているので(ただ、これが普通の人に比較して特段多いとは思わないけれど)、わざわざそんな自殺のようなことをしなくても良いのに、と思う。
ただ、その一方で、タバコみたいに周囲の人間に大きな迷惑をかけるわけでもなし、家族や仲の良い友達は残念がるだろうけれど、そういうアウトローっぽい生きざまが好きなのかも知れず、基本的には「勝手に飲んで、勝手に肝臓がんで死ねば良い」ということなんだろう。
しかし、それでもちょっと釈然としないものがある。なんだろうなー、と思ってみると、それはツイッターとか、ブログとか、個人が特定できる形でその内容が情報発信されているからなのかも知れない。このA氏がもし肝臓がんで死んだとする。それを聞いたみんなは、「あのとき、『もう飲むな』と注意すれば良かった」と大なり小なり思うわけだ。喫煙も、肝硬変が近い状態での飲酒も、一種の緩やかな自殺である。周囲の人間は、あとになって「あのときシグナルに気がついてやれば良かった」と思うことになる。このあたりが、どうにもすっきりしない原因なのだろうか。
そもそも、本人がどうしてツイッターでいちいちそんなことを報告するのか、僕にはその心理状態がよく分からないのだけれど、少なくとも僕に限れば、「あぁ、この人を酒の席に呼ぶのは二度としないようにしよう」と考えるし、このつぶやきを読んでもなお飲み会の席に彼を呼んだり(仕事は別だけれど)、さらにはお酒を勧めるような人間とは知り合いでいたくもないと考える。じゃぁ、そういうことを期待しているのですか?って、それはそれでやっぱり違うんじゃないかなぁと思う。だって、僕はA氏とはお酒の席でしか話をしたことがなくて、今後もお酒以外に何か接点があるとも思えないのだ(強いて言えば麻雀とかはありうるかも知れないけれど、僕は今ではすっかり麻雀からは足を洗ってしまった)。そういう人間に対して絶縁を宣言するためにつぶやいているとは、そこまでの覚悟があるとは、到底思えない。
A氏は、それでもお酒を飲んでしまうことを意思が弱いから、と自己評価していたけれど、これは意思の強弱の問題でもないと思う。
肝臓がんで早死した時に失うもの(自分が失うものと、周囲が失うものの両方)と、今この瞬間に得られる楽しさを天秤にかけて、今の楽しさを取ったということだろう。もちろん間抜けな人間であれば、それ以前に「何を失うか」を想像できず、その結果、きちんとした評価ができずに飲む、ということだってありうるのだけれど、少なくともA氏にそういう想像力が欠如しているとは思えない。
あぁ、わかった。釈然としない理由が。つまり、彼が死んだときに失われるものの中に、「僕が失う彼」という要素が含まれているからだ。失われるものの総量の中にしめるその量(=割合)自体はそれほど大きくないものだけれど、僕の中から一定量の何かが失われるのは間違いがない。
なるほど。結局、自分が困るから釈然としないんだ。人間とはどこまでいっても利己的なものだ、ということをまた身をもって感じたわけだね。
で、だからなんだと言えば、僕の周りに人間にはタバコは吸って欲しくないし、過剰な飲酒もやめて欲しい。飲酒しての運転なんて論外だし、目が回るくらいに働くのもやめて欲しい。そうやって健康的に生きて、寿命でさよならして欲しいのですよ。
皆様、くれぐれもご自愛ください。