僕が芦田氏のツイッターの面白さに最初に触れたのは、慶應だかどこだかの女子学生をこてんぱんに言い負かしたとき。喧嘩(とも言えないが)の勝敗はやる前からわかっていて、でも、ネットだから、女子学生の肩を持つアホもいたりして、そのアホ達が芦田氏に「また馬鹿がでてきた」とバッサバッサ切り捨てられる様もあり、トータルでなかなか興味深いコンテンツに仕上がった。
#きっとどこかにTogetterされていると思うけれど、面倒くさいから探さないでおく。
なぜこのエピソードが興味深かったかって、芦田氏の主張も面白いし、また、芦田氏が教育者として彼女に接していたのも面白かったし、結論の「ツイッターなんかやめて本を読め」というのも納得だったからだ。
以後、僕は芦田氏のつぶやきを(それなりに)チェックしているのだけれど、発信される情報の質、量の両面で、他の追随を許していないと思う。今、この記事を書くにあたって、芦田氏のつぶやきをちょっと遡ってみたのだけれど、一週間がやっとである。とにかく、物凄い量のつぶやきだ。そして、その中では140文字という非常に断片的な情報発信が展開されていて、閲覧者を含めて「結論の提示」→「疑問の提示」→「結論の解説」→「理解」というやりとりが繰り返されている。芦田氏のつぶやきは、ツイッターにありがちな140文字自己完結のつぶやきや、ノーコメントでの脊髄反射的RTがほとんどないのが大きな特徴だ。そして、ひとつのつぶやきだけを読むのではなく、その周辺のやりとりとセットで読む必要がある。こうした、周囲とのやりとり(会話の体を取っているけれど、実際には合意形成ではなく教育が展開されている)を見せることによって教育、あるいは啓蒙・啓発活動を展開するというのは非常に古いやり方で、多分プラトンとかアリストテレスがやっていたことをツイッターを使って展開しているような感じなんだろう。ただ、2000年も前のやりとりを本で読むのと、モニター越しに生きている芦田氏の意見を聞けるという点は大きく異なるのだが。
「絶対的な正しさを主張する存在」を中心にして、その周囲に信者を配置すると、ともすると宗教のようにもなってしまいがちだし、そうやって取り巻きを周囲に配置するケースが散見されるのがツイッターの中の論客達(それが意図的であれ、非意図的であれ)でもあるのだが、芦田氏の主張が一般の感覚とやや離れているところもあり(それは正しくない、という意味ではない。逆に、正しいからこそ、一般の感覚とかけ離れているように感じられるのだと思う)、つまりは大衆に迎合するところ(大衆に歩み寄るところ)がなく、それによって芦田氏に反発する層が一定量いることによって、芦田氏を取り巻く状況は非常に好ましいバランスが形成されていると思う。簡単にいえば、ときどき芦田氏に馬鹿を言ってくる人間がいるぐらいが、芦田氏を理解するのにちょうど良いのである。この点が、「少数の論客(有名人)」対「大衆(ファンクラブ)」というツイッター内にありがちな、かつ面白みのない構図と大きく異なる点でもある。
#まぁ、こんなことを書いて紹介している僕も、馬鹿を言ってくる馬鹿のひとりなんだろうけれど。
では、芦田氏の今年になってからの過去ログから、面白いものを選んでみる。
芦田宏直氏の過去のつぶやき
学校の意義は、社会に染まらないこと。だからこそ、次世代の人材を作ることができる。
正義とは決断の負い目をもつこと
結論とは、みんなが、えっー、と思うようなもの。
PCと携帯の電源を消して、本を読めー。
名刺持ってる学生は勉強きらいですという名刺。
起業学生はアホ学生。
若くして30代で社長になってしまうと、金策のために、くだらない仕事を手がけすぎて、本来の豊かな才能を殺している人たちが多すぎる。若者よ、起業するなかれ。
こんな感じである。年明けの2週間だけでもこれだけの興味深いセンテンスが発信されている(もちろん、これだけではない)。芦田氏のつぶやきは、例えばツイッターというツールに疑問を持ち始めている人(つまり、少し客観的にツイッターを理解してみよう、と思っている人)には、色々と有益な情報を提供してくれるんじゃないかと思う。逆に、「はい、これが最近流行のツイッターですよ」と与えられて、ただそれを利用しているだけで満足の人には向かない。
とにかく、ネット内の議論というのはfjの昔から徹頭徹尾自説を述べるだけで、いつまで経っても平行線というものが多かった。それは、相手を納得させるだけの強さを持ち得ない人がほとんどだったからだ。だけど、芦田氏の場合は多くの場面で相手を納得させてしまう。その点で「凄い教育者だな」と思う。勉強させていただく点が多々あって、もっと日々考えて生きなくちゃな、と反省もする。コミュニケーションを何のためにするのか、あるいは何のために本を読んで、何のために考えるかって、そりゃ昨日の自分とは違う自分になって、昨日は達成できなかった目標を達成するため。目標を達成できなければそりゃ意味が無いわけで。勤勉な馬鹿というのが一番始末に負えないわけで、これにならないように勉強しなくちゃならない。そのための引き出しを、凄くたくさん持っているように感じる。少なくとも、僕にとっては凄い人であることは間違いがない。僕は少なくとも成功者ではないのだから、今のやり方では駄目ということ。では、どうしたら良いのかを考えて、変わらなくちゃならない。今いる場所は居心地が良いから、ついついそれを忘れてしまうけれど、そんなんじゃだめじゃん、ということを教えられる。
ちなみに、芦田氏の主張は、僕が年末来やっているリバネスの健康食品販売ビジネスに関する追求との関わりも実は密接だったりする。
リバネスの健康食品販売ビジネス追求シリーズはこちら
その1「どうしてこうなったんだろう?」
その2「リバネス批判」
その3「国からの委託・補助の状況(調査進行中)」
その4「博士号を利用したマーケティング」
中間報告:リバネスを中小企業庁が呼び出し、指導することが決定
食品関連のマーケティングで見かける科学者の専門性判定
中小企業庁への要望書(ファックス送信済み)
それはリバネスの軸足が教育であるということもあるが、彼らが学生ベンチャーであるということの方が大きい。何人かの関係者とも議論してきたが、現時点でのリバネスに対してある人が提示したのは、「結局のところ、リバネスが健康食品ビジネスを始めたのは、やりたくてやっているのではなく、やらざるを得ないからだろう。ではなぜやらなくてはならないのかといえば、役に立たない社員を大量に抱えてしまったことによるのではないか。三流大学を卒業し、大学院で経歴だけ塗り替えて、しかし、そこでは何の勉強もせず、肩書きだけの「博士」を持った社員たちをどうやって利用するのか、と考えたとき、結論として出てきたのが「博士が薦めます」といったラベルを添付した健康食品の販売だったのではないか」というものである。僕はそうではないことを祈っているし、芦田氏の「学生は起業なんかするな」という主張は「本当にそうなのかな」と思ったりもしていたのだけれど、この2ヶ月ほどですっかり自信をなくしてしまった。自分は学生の時どうだっただろう、と考えてみると、確かに部活以外は勉強をたっぷりやったし、本も数えきれないくらいに読んだし、大学院を出たあとに就職した会社ではやりたいことを全くやらせてもらえなかった(芦田氏の主張は「入社してすぐにやりたいことをやらせる会社は三流」)。その結果ここに存在する自分は決して成功者ではないけれど、でも、それらの経験がなかったらもっと駄目な人間だったとも思う。正直なところ、僕は芦田氏の「学生は起業するな」という主張に対して反論できる部分がほとんどない。
上の方で「ただそれを利用しているだけで満足の人には向かない」と書いたけれど、実は、そういう人たちこそ、芦田氏のツイッターを読んでみるべきだ。
何しろ、今、ツイッターをやるなら、この人をフォローしておくことは必須である。そして、何かカチンと来たら、議論をふっかけてみたら良い。「また馬鹿が来た」と言ってもらえるかも知れない。