なんというか、頭の悪い知事だなぁ、と思う。この人が再選濃厚って本当なんですか?都民は半分くらいがアホなんですか?石原裕次郎の兄だからですか?という感じなんですけど、都民じゃないから仕方ない。
花見、宴会を控えて、どうするんだろう。どうやって痛みを分かち合うの?どうしてそれをあんたに強制されなくちゃいけないの?立て看板立てるお金があったら被災地に送ったら?「俺は花見を自粛して家で被災者と痛みを分かち合う」と表明するだけじゃだめなの?
思い出すのは2004年の秋の園遊会での、天皇陛下と将棋の米長邦雄永世棋聖とのやりとり。
米長氏:「日本中の学校にですね、国旗を挙げて、国歌を斉唱させるというのが、私の仕事でございます」
天皇陛下:「ああ、そうですか」
米長氏:「今、がんばっております」
天皇陛下:「やはり、あの、あれですね、その、強制になるというようなことでないほうがね、望ましいと・・・」
米長氏:「ああ、もう、もちろんそうで・・・本当に、素晴らしいお言葉を頂きまして、ありがとうございました」
目的は手段を正当化しない。「被災者と痛みを分かち合う」という目的のために、「公園での花見を強制的に自粛させる」ことが正しいのか。強制することの野蛮さを自覚していない指導者というのが、僕は嫌いである。
もうひとつ、参考記事。
野田地図のサイトに掲載された、「劇場の灯を消してはいけない」という記事。
「劇場の灯を消してはいけない」
以下、一部引用。
今現在、東京は、罹災地と罹災した人々をこれから粘り強く支援をしなければならない立場のはずです。
こういう時に、「ココロ」を忘れてしまう。が同時に、人間には、その忘れた「ココロ」を取り戻そうとする「ココロ」もあります。
この自分の首をしめる自主規制のような事態は、のちのちの社会や文化に窮屈で不自由な爪痕を残します。
劇場の灯が消える時は、「ココロ」の灯が消える時です。ただ生きるために「ココロ」を忘れて、今最も苦しんでいる被災者のことも忘れて、モノを買い漁る日が来る時です。私は、そう信じて演劇をやっている人間です。
(是非、出典元の文章を全文お読みください)
この文章を読んだのは昨日だけれど、僕が「総統閣下シリーズ」で訴えてきたこととも通じる部分が少なくない。20年間野田さんの芝居を観てきて、彼の影響を強く受けているんだろうなぁと感じる。僕の主張はほとんどが僕のオリジナルなのではない。むしろ、ほとんど全ての部分が誰かからの影響を受けていて、僕はそのさじ加減を(無意識のうちに)決めているだけだ。もちろん野田さんからも少なからず影響を受けて今の僕が存在しているのである。今日は「南へ」の楽日。野田さんの覚悟がこもった姿をこの目で見ることができることを幸せに思う。
目的は手段を正当化しない。さっき僕が自分で書いたとおり。だから、今回の震災にあたって一連の「総統閣下シリーズ」を作成したことに関しては常に後ろめたさを感じている。『「ココロ」を取り戻そうとする「ココロ」』をきちんと具現化するには、今の僕には残念ながらこの手段しかなかった。いつか、きちんとした手段で、目的を果たせるようになりたいと思うし、この無力感を忘れてはいけないと思う。こう思う僕のココロは、決して誰かに強制されたものではない。