「不謹慎かも知れませんが」は、大震災以後、頻繁に見かけるイディオムである。
今、グーグルで「不謹慎かも知れませんが」を調べると283万件も見つかる。「元木一朗」が8万3千件だから、1「不謹慎かも知れませんが」は34「元木一朗」である。しかも、この「不謹慎かも知れませんが」はここ一ヶ月ぐらいに大量供給されたのだ。「元木一朗」なんて、もう40年も前に供給されている。そのくらいに「不謹慎かも知れませんが」は一時期に大量供給されている。あたかもここ一ヶ月ぐらいの日本列島の地震のようである。
僕はこの「不謹慎かも知れませんが」という言葉が大嫌いなので、今までの人生で一度しか使ったことがない。
現場→不謹慎かも知れませんが牛乳を買い溜めしました
なぜなら、「不謹慎」か「不謹慎じゃないか」は、その発言者に何の変化も生じさせず、どちらであったとしてもそいつは「不謹慎かも知れませんが」以下の言葉を発するのだ。
「不謹慎かも知れませんが、私は就職が決まってうれしいです」
「不謹慎かも知れませんが、今日は中日が勝ってうれしいです」
「不謹慎かも知れませんが、明日は天気がよさそうです」
「不謹慎かも知れませんが、夕立なのでちょっと洗濯物を取り込みます」
「不謹慎かも知れませんが、今日から始まるドラマが楽しみです」
「不謹慎かも知れませんが、今日、サミットはポイント5倍です。ただし午前中だけ」
「不謹慎かも知れませんが、舌平目の煮つけを作っていたら焦がしちゃって腹が立つ」
「不謹慎かも知れませんが、来月結婚します」
「不謹慎かも知れませんが、坊やだからさ」
「不謹慎かもしれませんが、支持政党がないなら明日は公明党に投票してください」
「不謹慎かも知れませんが、ポポポポーン」
「不謹慎かも知れませんが、鶴と亀がいて全部で4匹、足が10本なら、鶴は3匹です」
「不謹慎かも知れませんが、フォースの加護のあらんことを」
まぁ、何でもいいのだけれど、要は、不謹慎か不謹慎じゃないかは関係ないのだ。よく、ネットで訃報に接した奴がツイッターで「合掌」とか書いているけれど、「うそつけ、お前。タイピングしていてどうやって合掌するんだよ、ばーか。百歩譲って、合唱だろうがよ。そもそも、合掌などは本人と故人の間の個人的行動であって、ネットで開陳する(人に見せる、アピールする)ような話じゃないんじゃねぇの?」と思う、あれと一緒だ。見えないと思っていい加減なこと言いやがって、という感じである。賭けてもいいが、こいつらはパソコンの前で合掌なんかしていない。自称合掌屋である(天津飯さんみたいに手が4本あるとか、足でキーボードを打つ人とかはいるかもしれないが)。
「不謹慎かも知れませんが」は、原子炉の中の放射能物質とともに地中深くに葬り去るべきなのである。この際だから言っておくが、「不謹慎かも知れませんが」と枕詞を書いている段階で、そいつの発言ではなく、そいつの存在が不謹慎なのだ。
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