2011年05月18日

科学と気分とものの価格と

昨日の深夜、静岡県と神奈川県が「荒茶の放射能測定みたいな、余計なことはするな!」と国に要望書を出したというニュースがあって、こりゃぁ酷いと思って総統閣下動画を作ったわけですが、「これはひどい」となる理由は単純で、都合が悪いからといってそこにあるデータを隠すというのは国がとるべき姿勢ではないからです。データを取ったら最後、情報開示を迫られたり、漏洩したりする危険性もあるので、「そもそも検査するな」というのが神奈川や静岡の言い分なんでしょう。

ただ、これはビデオでも指摘しましたが、ひとつ重要な示唆があります。それは実際問題、汚染のない作物と混ぜてしまえば、科学的には問題が軽減される、ということです。

例えば、レタスとか、キャベツといった大きな固体の作物で、しかも日持ちがしないものは厳しいのですが、分かりやすいのは米です。ここに基準値の1.5倍の放射線を出す汚染米が10キロあったとします。そこに魚沼産コシヒカリを10キロ持ってきて、混ぜてしまう。きちんと均等に混ぜれば、基準値の0.75しかない、基準適合の魚沼産コシヒカリが20キロ出来てしまいます。政府の基準値を信用するのであれば、これで何の問題もありません。科学的には。ただ、気分の問題は残ります。「なぁんだ、気持ちの問題かよ」というなかれ。気持ちの問題はことのほか重要です。AKB48にうじゃうじゃいる女の子の中で誰が好きか、みたいなのも、映画「ブラックスワン」が日本で大ヒット!も、科学は二番じゃだめなのかどうかも、全部気持ちの問題です。どちらかと言えば、世の中は科学よりも気持ちで動いています。

お茶の葉問題でも明らかになりましたが、洗ったり、加工したりできるものについてはかなりの確率で、汚染生産物の放射能を人工的に基準値より下げることが可能です。その上で、混ぜることができるなら無敵ですね。福島産だろうが、茨城産だろうが、頑張れば、ほとんどのものが基準値以下に抑えることができるはずです。日本酒とか、味噌とか、こんなのは材料を混ぜてしまえばさっぱり分からなくなります。政府の基準値を信じる、市場に出回っているものは安心して口にする、というクラスターにとっては、怖いものは何もありません。もう、福島でも茨城でもどこでも構わないので、どんどん生産して、どんどん他県の生産物と混合してしまえば良いのです。サイズ的には・・・個人的にはイチゴぐらいだとダメですが、米なら大丈夫、ぐらいのサイズ感です。おそらく、「数が数えられるかどうか」が分水嶺になるのではないでしょうか。「少量なら問題ない」というスタンスに立てる人なら、これで問題は解決します。これは、皮肉でも何でもなく、事実として、です。一時期水道水のヨウ素が問題になっていましたが、これだってミネラルウォーターと一定割合以上で混ぜてしまえば、科学的には問題がなかったはずです。

だけど、「放射能は嫌だ、食べたくない」というクラスターももちろん存在します。目の前に、基準値(例えば10ベクレルとする)以上の放射能汚染作物A(例えば15ベクレル)、基準値内の放射能汚染作物B(例えば8ベクレル)、作物Bの半分だけ放射能汚染されている作物C(例えば4ベクレル)、全く汚染されていない作物D(0ベクレル)が存在したとき、あなたはどう考えますか?僕の場合は、まずDを買います。Dがない場合はAもBもCも買いませんが、どうしても食べたいものであれば、この3つの中であればCを買います。「全部基準値以下なんだから、BもCもDも一緒だよ!」という人もいると思います。そういう人は何の問題もありません。でも、僕の場合は、BとCとDの作物には明確な差異があります。ところが、今の行政はBとCとDを全部一緒にして市場に流通させています。

放射能は薄めることについては非常に柔軟ですが、その一方で物凄く少量でも検出が可能という欠点もあります。薄めても、薄めても、どんだけ薄めても検出されてしまいます。ただちに健康に影響がでないとしても、放射線は検出されます。そして、その放射線が嫌いな人も存在するわけです。誰かが「総量20ミリシーベルトまでは影響がない」と言ってくれても、1μシーベルトでさえ被曝したくない人も存在します。今の国の姿勢はこの気持ちを無視しています。データがないのであれば仕方がないのですが、税金を使って数値を調べておいて、彼らの給料という、首根っこを押さえた学者たちを集めて話し合いで決めた暫定基準に照らし、それ以下であれば市場に出してしまいます。スーパーに買い物に行った消費者がわかるのはその商品の産地だけです。ですから、「放射能は嫌だ」という人たちは、これらの商品の汚染度にかかわらず、これらの商品を忌避します。少なくとも僕は、もうすでに茨城、埼玉、千葉あたりの野菜は買わないことにしています。

残念ながら現状においては放射線はどんな人でもいつでもどこでもきちんと計測できるわけではありません。誰か、偉い人が計測してあげる必要があります。そして、計測してくれる人がいなかった場合、一般の人達は、目の前にある商品がどの位放射能汚染されているか、判断ができません。放射能の汚染度がわからないのであれば、汚染されている可能性のあるものを買わなくなります。

静岡県と神奈川県が生産者保護の視点から「荒茶の放射能測定をやめてくれ」と言いたくなる気持ちもわからないではありません。しかし、それは「みんなに飲ませてしまえば別にどうってことないでしょ」というもので、国民の気持ちを全く無視しています。簡単にいえば、自分勝手、です。では、なぜそうやって自分勝手になってしまうのでしょうか。静岡県や神奈川県の政治家の質が低い、というのも間違いなくあります。ただ、彼らは「次の選挙で当選するため」に働いている人たちで、選挙で投票券を持っていない、県外の人たちの意向などはどうでも良いのです。重要なのは県民なのであって、これは全く普通の感覚です。だから、彼らが国民の気持ちを犠牲にして、県内の有権者の便宜をはかろうとするのは当たり前です。しかし、ここでも忘れてはならないことがあります。それは、静岡県にしても、神奈川県にしても、犠牲を国民に求めることだけが手段ではないはず、ということです。仮に、荒茶段階で放射能測定を実施し、それによって静岡県や神奈川県のお茶の価格が下がったのであれば、それは原発の爆発によって生じた「被害」です。だから、それを東電に支払わせれば良いだけのことです。両県は、「検査するな」ではなく、「検査によって出た損害は原発の爆発によって生じた被害であると認めろ」と迫ることもできるはずです。僕はむしろ、こちらをやるべきだと思っています。

ものの価格は、科学だけで決まるわけではありません。科学があって、それを気持ちが評価して決まります。そのためには、「この商品は○○ベクレルです」といった数値の提示が必須になります。放射能活性を測定するところが「科学」、その数値に対して妥当な金額を決めるのが「気持ち」です。こういう体制がきちんと構築されれば、今回のようなお茶の話も別に問題にはならなくなるはずです。単に「このお茶は荒茶段階で○○ベクレル/キログラム、お茶っ葉段階で○○ベクレル/キログラム、そして××県産の被曝なしのお茶っ葉とブレンドすることによって、最終的には○○ベクレル/キログラムになっています」と表示すれば良いだけのことです。

僕たちは多分、首都圏に住んでいる限りは一生(多分、50年とか、100年とかのオーダーで。福島ならもっと長いオーダーで)放射能と付き合っていかなくてはならなくなりました。今、この瞬間に「○○シーベルトまでの被曝なら安心」という結論が出せない以上、その状況は50年後ぐらいまでかわりません。なぜなら、これから数十年かけて、日本人の体を利用した生体実験が実施されて、初めて結論が出せるからです。そうした状況においては、大事なのは御用学者が集まって決めた基準値ではなく、目の前にある商品が何ベクレルなのか、何シーベルトなのか、です。

福島、あるいは関東に住み続けるのも、茨城産や埼玉産の野菜を食べるのも、全ては自己責任です。ただ、自己責任に帰着させるためには、情報の提供が必須です。農水省などは調子こいて「風評被害」という言葉を振りかざしていますが、原発問題に関しては基本的に「風評被害」は存在しません。あるとすれば、原発事故以前に収穫された農産物が市場で忌避されることぐらいです。そして、これすらも、その原因は行政がきちんと情報公開しないからに他なりません。

行政はなるべく責任を回避し、放射線被曝や金銭的損失といった「被害」をなるべく広く薄く、国民に押し付けようとしています。僕たちはそのことをきちんと指摘して、そういう姿勢を崩さない現在の政府を厳しく糾弾していくべきだと思います。

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