色々と研究者と話す機会は多いのだけれど、ほとんど全員と言っても良いくらいの彼らから感じるのは「トップダウン思想」だ。いわゆる官僚主義と言っても良い。ただ、官僚主義と言ってしまうと色々な意味を含んでしまう。官僚主義に含まれる、減点主義とか、前例主義といった意味ではない。要は、個人でも組織でも良いのだけれど、「偉い人が決める」という思想である。
日本の学者の場合、下っ端が手にするお金はほとんどが文科省からのものなんだと思う。「外部資金の調達」と言っても、その元をたどっていくと結局のところ公的なお金に落ち着くことが多い。僕が学生の頃は企業との連携(癒着とも言う)が密だったので、税金依存率という面で今よりもまだマシだったのかも知れない。今は大学が知的財産戦略を明確に打ち出してしまったために、大学は大学、企業は企業、という形になって、両者の対話は「特許を中心とした知的財産権」を共通言語としてのものになってしまったようである。
結果として、大学研究室は「独立性」を高めたように見えるけれど、その実、文科省依存体質を強めてしまった。これは、官僚様が指示してくれることが全てということを意味する。お願いする先も、出してくれるのも官僚様だ。こうなってしまうと、税金を恵んでもらうしか生きていく手段がない。生きていく手段がない以上、お役所の奴隷である。今、東大を中心とする原子力関係の学者たちを原子力村の御用学者として批判する場面を良く目にするのだが、御用学者は生まれるべくして生まれているのである。そして、これは構造的な問題でもあるから、「あいつらは御用学者だからよ」と文句を言ってみても、当事者からすればどうしようもないのである。ご飯を食べていくためには、基本的に御用学者であるしかない。そして、学者たちが文科省の悪口を言えるわけがない。彼らは文科省の先兵として財務省に乗り込んだり、「二番ではダメなんですかとは馬鹿か?」などとノーベル賞を看板にしつつ圧力をかけたりするのである。日本の大学で研究をしている限り、文科省にそっぽを向くことは無理なのだろう。
先日もあるポスドクが、「東大以外にも優秀な人材を配置するシステムが必要」と書いていたのを目にしたけれど、これはつまりは「偉い誰かが差配してくれる」ということを意味している。もう、根っこから官僚崇拝なのである。
国家、あるいは官僚組織を人と考えれば、官僚主義のいきつくところは一種の専制君主制なのだけれど、銀河英雄伝説のラインハルトみたいに、非常に優秀で理想的な君主がいた場合、専制君主制は国民にとって最も優秀な統治システム、幸福な統治システムになる。こういったシステムは動物社会では普通に見られるもので、サル山などは典型的な例である。
サル山ではきちんと機能しているシステムが人間社会ではなんでダメなのか、ということになるのだが、答えはそれほど難しくない。官僚主義、あるいは専制君主制は意思決定システムが属人的になるので、意思決定部門を外部から狙われたときに収拾がつかなくなる。この一番簡単な事例が「暗殺」である。官僚システムの場合は「賄賂」などがこれにあたる。中には「専制君主の暴走」を思い浮かべる人がいるかも知れないが、実際にはそうした内部崩壊よりも、外部からの干渉事例の方が多いのではないかと思う。ただ、多くの国民は役所の中を見たことがないので、そうした不透明なやりとりを近場でみる機会がない。逆に専制君主の暴走は他国の事例で色々と見る機会があるし、その多くが悲劇的な結末を迎えていることから、そちらを危惧するのかも知れない。実際には、顕在化しないだけで、多くの問題を抱えているのはやはり外部からの攻撃だと思う。サル山は基本的に力が全ての社会で、お金も学閥も宗教も関係がない。だから、サルの社会は専制君主制でも安定する。しかし、人間社会においてはウィークポイントを多く抱えてしまい、問題が多くなる。
そのウィークポイントはどうやって克服されるのか。官僚制を維持する前提に経てば、パイプラインの複数化と情報の透明化のふたつである。ところが、ウィークポイントは官僚にとっての最大のメリット(つまり、権力だから)でもある。この対立は物凄く明確で、だからこそ官僚組織はパイプラインの複数可(地方分権)とか、情報の透明化に本能的に反対する。情報を自分で保有して、自分で判断して、それを実行するのが官僚の醍醐味なのだ。それが面白いから、少なくない数の東大のエリートたちはキャリア官僚を目指す。以前、経産省の飲み会で同僚たちに、「役所の究極的な役割は統計の整備で、シンクタンク機能は民間に任せてもいいはずだよね」ということを言ったところ、「それはそうだけれど、そうしたら誰も役人をやりたがらないよ」という返事が来た。つまり、中央官庁で役人をやっている以上、みんな大なり小なり、それぞれのレベルで専制君主になりたいのだ。かくいう僕も色々な会議で、自分の責任において、自分の判断で「経産省としての意見」を表明したし、そこまで権限を与えてもらって嬉しかった。だから、官僚組織がパイプラインの複数化や情報の公開に消極的なことはよくわかる。
しかし、である。やはり限定されたパイプラインは攻撃を受けやすい。官僚組織がピンポイントで攻撃されたもっとも顕著な例はオウムのサリン事件だったのだけれど、実はもっと身近に攻撃事例がある。深刻なのは日常的に行われている「組織によるパイプライン攻撃」なのだ。この組織には色々なパターンがあるのだが、その一つが今注目を集めている「電力村」である。例えば、電力会社から大量の資金が流れている(そういえば、この分野は公的なお金ではない)原子炉系の大学研究室であれば、当然のことながらそこに人間関係が発生している。先輩、後輩の関係もあるし、できの良い人間を教授が役所に送り出せば、そこにもパイプができあがる。中央官庁にこういうパイプがあれば、何か困ったときにそのパイプを利用して、官僚組織に圧力をかけることができる。
実際に僕は官僚機構の中にざっくりと根を下ろして、不透明、かつ不適切な意思決定をしているケースを目の当たりにしているのだけれど、これほど始末におえないものはない。
ひとつ、具体的な例を書いてみる。ある補助金の配布にあたり、対象事業者を選ぶことになった。現在はこの手の選択でも透明性が重視されるので、官僚が勝手に選ぶといったことはない。その時も、委員会が開催され、そこで配布先を決めることになった。メンバーは課長が選んだ外部有識者4名と課長の5名である。課長は委員会の冒頭で、「事業者選択の方法について提案します。それぞれが一社、自分の推薦したい会社を挙げましょう。各自が1社提案するので、最大で5社になりますが、これはその時点で決定としましょう。お金はまだ残るはずなので、残りについてはまた皆さんで候補を挙げて、どの事業者が良いのか議論しましょう。これでいかがですか?」と発言した。この手法は全会一致で決まり、それぞれが候補を出したのである。その候補をそれぞれがどういうやり方で選んだのかは不明だけれど、この決定手法を採用した時点で、誰もがひとつ、自分の好きな事業者に対して補助金をつけることができるようになったのである。さて、仮にこの決定方法が事前に根回しされていたらどうだろう。その可能性は否定出来ないし、逆に根回しがあったと考えるほうが普通だ。そして、その委員が特定の事業者団体、学閥、宗教などに属していたらどうなるのか、と想像してみて欲しい。
これは仮想事例でも何でもなく、実際に経済産業省のある委員会で行われたやりとりだ。そして、その課長は僕達が全く理解出来ない組織を推薦し、採択された。
ここでは固有名詞を出さないけれど、官僚組織というのはこういった目に見えない組織に非常に弱い。これが政治家であればずっとクリアになるのだ。「あの人は族議員だから」とか、「あの人は公明党だから」という形で、かなりのところまで透明性が確保できる。ところが、官僚になるとこのあたりが全く見えてこない。官僚組織の危険性はこの点にある。まず、日本の国民はこういったリスクを認識するべきだ。官僚組織は非常に不透明で、官僚に依存するということは相応のリスクを持っているのである。
そうした官僚主義に対して国民は何も出来ないのか。実際には、徐々に状況は変わりつつある。特に「情報」の透明化は徐々に広がりつつある。しかし、そのスピードは決して早いとは言えないし、社会は変わる気配がない。今、官僚組織を大改革しようと思えば「みんなの党」に頑張ってもらうしかないが、「みんなの党」の方針で日本が立ち行くかと問われると、それもまた疑問なのである。なぜなら、官僚は官僚で、間違いなく優秀なのだ。官僚組織と真正面から喧嘩をすることは、メリットよりもデメリットの方が大きい。では、民主党や自民党ならどうか。民主党と官僚との関係は良く見えないが、中途半端に「政治主導」を打ち出し、そのおかげでドツボにハマっている印象がある。何もできないことを見透かされ、逆に手玉に取られている印象すら受ける。これが自民党になると、今度は癒着が気になる。何しろ、自民党と官僚組織は半世紀にわたって蜜月関係を維持してきたのだ。適度な距離感を期待するほうが難しい。
「適度な距離感を持ちつつ、上手に官僚を使っていくこと」を考えなくてはならず、その場合、自民党とも、民主党とも、もちろんみんなの党とも違う政党が台頭してくる必要がある。その勢力は、
透明性の高い意思決定手法を持つ
情報の透明性を維持できる
官僚のモチベーションを維持する
といった、非常に同時存在が難しいいくつかの項目を共存させなくてはならない。これだけでも容易ではないのだが、ここでもうひとつ、大きな問題があるのだ。それが明らかになったのが先日の都知事選挙である。明らかになった大きな問題とは、「少子高齢化社会」である。「そんなの前から明らかじゃん」と思うだろうが、多くの人はこの問題を年金問題とか、社会の継続性とかの視点で捉えている。しかし、今回明らかになったのはこの二つではない。世代間格差に対する絶望的な壁の存在である。
20年経とうが若者の投票率がアップしようが状況は変わらない、というのは先日ブログで書いたとおり。なぜそうなるかと言えば、今の40代以上にとって都合の良い社会システムだから。20、30、40、50、60、70代がそれぞれ均等に存在するなら、人数比は1:2である。その過半数を占める人たちにとって都合の良いシステムに付属する形で「官僚システム」が存在する場合、世の中は「多少のデメリットには目をつぶろう。それより今の社会システムを継続しよう」となる。そういう現実を東京という場を使って見せつけた意味で、先日の都知事選は非常に興味深かった。今の日本は、「若者たちの労働力を利用して、今まで築きあげてきた日本社会の衰退スピードを鈍化させよう」という社会だ。その「日本社会」とは、官僚支配、年功序列、終身雇用、既得権者が権利を確保する社会である。
以前であれば、こういう状況において一番最初に反発するのは学生たちだった。ところが、その学生たちも、文科省によって飼いならされているのである。
都知事選の結果を分析してみて、「あぁ、こうやって日本という国は衰退していくのだな。この流れから抜け出すことは、並大抵のことではないな」と思った。遅ればせながら、「少子高齢化」という津波の本当の正体がようやく見えてきたわけだ。でも、残念ながら避難すべき高台が見当たらない。「若」対「老」の対立構造において、戦力差が圧倒的なのだ。
理想的な民主主義の構築は、理想的な専制君主制の構築と同じように難しい。