@jai_an 芦田宏直
微分論を取り上げないで、信者論に徹するのはずるいなぁ。しかもこの「信者」論、間違ってるし(笑)。 そもそも1万人程度のフォロワーで信者も何もないよ。
http://twitter.com/#!/jai_an/status/72554947383803905
なるほど。実は、「Twitter後のネット社会」の大部分を書き上げたのは2010年のゴールデンウィーク前で、大変恐縮ではあるのですが、その時点では芦田さんの「Twitter微分論」は私のタイムライン上で微分化されてしまい、その内容についてきちんと勉強しておりませんでした。それで本を書いてしまうとは大変お恥ずかしい話です。その後、Ustreamで一度流し観をしたのですが、結局結論が良くわからず(というか、だからどうなの?と思ってしまいました)、まぁ良いや、とスルーしておりました。しかし、「アホか」でもなければ「馬鹿か」でもなく、「ずるい」と、日頃の芦田さんのボキャブラリーには登場しない単語を引き出した(女性に言われてこんなに自惚れてしまう単語もありません、個人的に。究極の褒め言葉でもあります)ことに気を良くしまして、まずはTwitter微分論について再度勉強してみました。今回は、そのレポートです。まずは微分論の要約です。
ブログ→読み手が見えない。更新していくのにはスキルが必要。
SNS→誰が読んでいるか見える。反応を獲得しやすい。
これらのメディアは利用主体の能力格差が出てくる。能力を要求する。
ツイッターはそうじゃない。
誰でも楽しめる。
ツイッターでリストを使うのは、積分世界で生きてきた人間が微分世界のツイッターを無理やり積分化しようとしているケース
古い考え方の奴はフォロー数とフォロワー数のギャップにプレゼンスがあると思っている。つまり、フォロー数が少なくて、フォロワーが多いと偉い、みたいな。
そんなの関係ない。
いろんな付属品をそぎ落として、コメントだけがそこに存在しているのがツイッターの存在意義。
例えば「ミトコンドリアでそいつを判断する」ということ。そのミトコンドリアがだれのものかなんて考えない。これが「微分」の意味。
じゃぁ、何をするの?>楽しむもの。勉強できるわけがない。商売できるわけがない。
なるほど。このサマリーが正しいかどうかについて絶対の自信はないのですが、おおよそのところはあっているのではないかと思います。私は以前この微分論を見たときに、これをスルーしました。なぜかというと、最後の部分が私にとって面白くなかったからです。「色々とそぎ落として、140文字のデータだけがある」までは良いのですが、「データ」そのものが私にとっては面白いものではなく、それならツイッターは要らない、ということになってしまったのです。「ツイッターをどう利用するのか」ではなく、「ツイッターはあなたにとって無用のシステム」という結論になってしまい、これでは元も子もないな、と考えたわけです。
さて、ここでちょっと話を変えてみます。私は、芦田さんはツイッターを芦田さん流にとても有意義に利用していると見ています。それはどういう理由なのかをちょっと述べてみます。私の理解は、芦田さんは教育に関する教師、つまり、教師に教育を教える立場の方というものです。そして、馬鹿な教育論(これを展開するのは主として教師ですが、微分論的に言っても、発言者の肩書きは関係ありません)を見つけたら「馬鹿だ」「アホだ」と述べて、芦田さんの考える教育論を提示することを楽しみとしています。また、そのやりとりを周囲に見せることによって、当事者以外をも教育することを目論んでいます。つまり、芦田さんは頭の悪い教育論を常に探しているのです。そして、ツイッターの中にはそれがたくさん溢れています。だから、芦田さんはツイッターを馬鹿発見器(あるいは馬鹿な教育論発見器)として利用しているわけです。こうしたスタンスの芦田さんにとっては、次から次へと湯水のごとく馬鹿が供給されるツイッターはまさに天国。水を得た魚のごとく、また、モグラたたきよろしく、馬鹿を見つけては叩いて楽しんでいるわけです。
つまり、芦田さんの「楽しみ」とツイッターの微分的性格が物凄くフィットしたわけです。また、これを逆に言うなら、微分化されればされるほど、芦田さんの楽しみは増えることになります。なぜなら、芦田さんはひたすら馬鹿を探しているからです。そして、馬鹿には、付帯情報が必要ありません。今そこにある文字データが馬鹿であるかどうかだけが重要です。そして何より、芦田さんは自分の中にしっかりとした「正解」を持っている方です。その正解に照らすことによって、馬鹿はすぐに見つけることができます。おそらくは「教育」とか、「キャリア」とか、芦田さんにとって餌場になりそうな単語で検索をかけて(これは、魚群探知機のようなものです)、その結果から馬鹿を見つけてきているのではないかと推測します。満員の海水浴場に放たれた人食いザメのようなものです。
さて、話を自分のところに戻します。私の場合、ツイッターには馬鹿を求めていません。多くの場合、私の中に確固たる正解もありません。自分の中の正解を見つけるための情報や判断材料を求めています。その場合、ある情報について、それが信用に足るものかどうかの判断材料、つまりはその人の過去の発言が重要になります。ですから、ツイッターでも、私は「おや?」と思うと、その人の過去の発言を遡ってチェックします。ブログがあればそれを観に行くこともあります。ところが、これは芦田さんの微分論によれば、これはナンセンスです。まさに、「アホか」という奴です。芦田さんは、「そもそもツイッターには有益な情報なんてないんだから、それをツイッターに求めるのはナンセンスだ。有益な情報は140文字で収まるわけがないんだから、ブログでも、ウェブでも、SNSでも、他のところをあたるべきだ」と言うと思います。
実際のところ、私はデータオタク的な部分があり、だからこそ三菱総合研究所とか、経済産業省とか、データが集まるところで働いてきたんだと思います。芦田さんの微分論からすれば、ツイッターには最もフィットしないタイプの人間ということになります。
以上、芦田さんのツイッター微分論を見させていただいた上で、芦田さんの立ち位置と私の立ち位置を分析してみました。その上で、次回以降は「私はどうあるべきか」つまり、「積分型の人間はどうあるべきか」や、芦田さんに唯一間違っていると指摘されました「信者論」について、考えてみたいと思います。
#間違った認識があると以後の考察は意味をなさなくなりますので、まずはここまでをブログに記載し、皆さんのご意見を(もし得られるなら、ですが)聞いてみたいと思います。