さて、まず、面白かったフレーズ。
どんな馬鹿でも情報発信できるのが現代。
「どういう選択をするか」が個性になった。
色々な刺激を与えて、その反応を見て定義するのが帰納主義。
四六時中連絡が取れる環境はうまくいっていれば良いが、そうでなければストレス。
会社や学校で相手にされない奴もソーシャルメディアでは相手にされる。
ストックがない人間でも相手にしてもらえる。
ミクシィ、ブログは同調者と同時に敵も集める。
鬱陶しい奴が来たらインプットに時間のかかるコンテンツを与える。
専門家はインプットの時間が長い。
一般名詞を連ねていくと特定の場所に行けると考えるのが心理主義。
どんな風に言われても当てはまるのが心理主義。「あなたA型?じゃぁ、こうでしょ。え、違う?ひょっとして、牡羊座じゃない?」
大学は心理主義をつぶす場所。
心理主義であっても、それを感じさせない文体がある。
その上で、まずは心理主義である。僕の思考パターンは、いくつかの事例を想定して、それが心理主義なのか、心理主義ではないのかを考える。その延長として心理主義の理解を試みる、というもの。この手法、すなわち帰納主義で考えてみることにした。
僕が聞いたのは、まずはクラシック音楽について、評論家が評論するのは心理主義なのか、ということ。答えはイエス。ただし、心理主義っぽくない文体で表現できる人もいる、とのこと。次に聞いたのは、映画音楽を対象にした場合の評論はどうか、ということ。映画の音楽は映画とセットになっているので、その音楽が持つ意味をかなり限定できる。これについての芦田さんの返答は「むずかしい」というもの。次に聞いたのは、坂本龍一が自分の作曲した映画音楽をコンサートで演奏することはどう考えるのか、ということ。芦田さんは、「映画音楽は映画と一緒で初めて機能する。その作品から音楽だけを取り出したのなら、それはサブカルチャーに過ぎない」と回答。次に、「坂本龍一がコンサートで、「この曲はこういう映画のこういう場面での曲です」と説明してから演奏するのはどうなのか、と聞くと、「それは心理主義的だ。音楽家はあまり喋らないほうが良い」と回答。このやり取りを経て、僕にはある程度心理主義の形が見えてきた。
ここで、「ロボット(=人工知能)でも記述できる、理解できる」もの以外は心理主義である、という仮説を立てた。
例えば、ラーメン評論で考えてみる(芦田さんは僕が日本に6人しかラーメン評論家がいない時代からのラーメン評論家の一人だとは知らなかったと思うのだが、たまたまラーメン評論家に言及する場面があった)。僕が「池袋のまるきゅうは美味しい」と述べたとする。この「美味しい」は、ロボットには理解不能だ。ロボットには、「美味しい」という状態がどういう状態なのか、理解出来ない。僕たちは、ロボットに対して、「美味しいとは、温度はこの程度、カリウム濃度はこの範囲、ナトリウム濃度は・・・」と、様々な条件を設定してやる必要がある。ところが、そんなことは不可能だ。だから、「まるきゅうは美味しい」というのは心理主義ということになる。仮に、ロボットに対して「美味しいラーメン」を定義したところで、そもそも作り手はそんな定義とは無関係に、自分が感じる「美味しい」を丼の中に作り出しているので、定義自体にそれほど意味がないとも言える。ラーメンなんて、美味しいともマズイとも言えるんだ、ということになる。
こう考えると、評論なんて言うのはほとんど全部心理主義である。ヘッドフォンについて「これは音が良い」と言っている芦田さんも心理主義なのである。ゼンハイザーとビクターとソニーのヘッドフォンの優劣について、ロボットに教え込むことはできないし、次に出てくるであろう商品がそれらと比較して上なのか、下なのかもわからないはずだ。ただ、工業製品については、ある程度のところまで脱心理主義できる可能性もあるのかも知れない。
映画音楽を映画と分離して考えることが音楽のサブカル化というのなら、オペラの合間に演奏された交響曲は全てサブカル化していることになるし、それについて論じるのはもちろん心理主義だ。
と、ここまで考えてきて、芦田さんの罵倒の常套句、「アホか」について思い当たった。なぜ「アホ」ではなく、「アホか」なのか、である。「アホ」と断定した時点で、断定した人は心理主義なのだ。ロボットは、ある人間をアホとアホじゃない奴に分類することができない。さまざまな可能性を論じて、その上で判定する必要があるが、その可能性を全てチェックすることもできないし、仮に出来たとしても、それらの項目の優先順位とか、組み合わせとかをどう解釈したら良いのかわからないのだ。物理だけ抜群にできて、ノーベル賞科学者よりも成績が良く、その他のことは全くできない人がいたとして、それがアホなのか、アホじゃないのかは人工知能には判定できない。つまり、「アホ」も「アホじゃない」も、どちらも断定した時点で心理主義であって、だからこそ「アホか」なのだ。「アホか」を連発する芦田さんは、その裏で「俺は心理主義ではないぞ」と主張し続けているのである。
こうして考えてみると、帰納主義はいつまで経っても心理主義だ。例えば、水が全くないと言われている火星を考えてみる。明日の天気は晴れか、雨か。「明日は晴れです」と断定した時点で、これは心理主義になる。人工知能からすれば、火星には過去何千年も雨が降ってなかろうと、明日は雨が降るかも知れない。その可能性を完全に排除することはできない。
突き詰めていくと、エキスパートシステム以外の人間様(ライク)人工知能が作れない以上、最終的には人間はどこまで行っても心理主義から逃れられない、ということになる。
ただ、心理主義には度合いがある。これも芦田さんから出されたひとつのヒントである。心理主義であっても、心理主義っぽくなく見せる文体がある、とのことだった。つまり、“いかにも心理主義”と、“あんまり心理主義っぽくない心理主義”があるのだ。
“いかにも心理主義”としてわかりやすいのが占いである。「あなた、A型なの?じゃぁ、几帳面でしょ?」「いえ、結構ずぼらだと思います」「あ、ひょっとして、射手座なんじゃない?」みたいな感じだ。そもそも性格なんてきっちり2つに分けられるものじゃないし、ケースバイケースで変わる。トイレについては潔癖だけど、ガスコンロは汚れていても平気、みたいな人が、几帳面なのか、ずぼらなのか、わかるわけがない。こういう、どうとでも取れるものの蓄積が占いで、だから占いは“いかにも心理主義”なのだ。一方で、“あんまり心理主義っぽくない心理主義”もある。例えば明日の火星の天気だ。「過去何千年と火星には雨が降っていません。そもそも、水も確認されていません。だから、火星は明日も晴れです」と言えば、全く心理主義っぽくない。こうやって、帰納主義のn数を増やすことによって、心理主義的ではないように見せることが可能である。これは“心理主義っぽくない心理主義”の例だろう。
じゃぁ、もうちょっと身の回りの、例えば芦田さんの専門領域の“偏差値”はどうなんだろう。これは一見心理主義ではない。しかし、良く考えてみると、問題そのものが心理主義によって作られている。「この試験を実施すれば、確実に全ての人間の能力を評価できる」わけではない。教師ができることは、「なるべく心理主義っぽくない問題を作ること」であって、心理主義を脱することはできないはずだ。じゃぁ、それは絶対に無理か、といえばそんなこともないのかも知れない。例えば司法試験を考えてみる。問題として、「六法の全文を記述しろ」とすれば、これは心理主義ではないのではないか。ただ、裁判自体が心理主義なので、司法試験において脱心理主義を図っても意味はない。
心理主義の度合いがある以上、「なるべく心理主義から離れる努力」というものは有りうるのだが、「心理主義の度合い」と考えた時点で、それすらも心理主義ではある。ここで「定義の定義は不可能」「他人の価値観に干渉するのはダメ、というのは自己矛盾を内包している」といった、フレーム問題が出てきてしまう。
考えていると、「あぁ、なるほど、心理主義とはこういうものか」と決めた瞬間に、その定義は心理主義を記述していないことになってしまいそうだ。
ここまでが、昨日、芦田さんの話を聴いて、僕なりに「心理主義」を考えてみた結果である。昨日までは全くわからなかった心理主義だが、20%ぐらいはわかったような、とっかかりだけはつかんだような気がする。
#スター・ウォーズのC-3POやR2-D2は、ロボットのくせに心理主義的ではない、人間らしい挙動が面白かったんだなぁ、と思った。
次に、「馴れ合い層が集まるかどうか」である。結論から言えば、見事に馴れ合い層が集まっていたと言える(心理主義的なのは百も承知)。
以下、あんまり楽しくない記述だから追記に書きます。不愉快な文面でも大丈夫、という、覚悟のある人だけどうぞ。