ミクシィからTwitterへの過渡期の時代、Twitterにはまった人たちの中には「ミクシィはだめ。ツイッターはここが素晴らしい」と書きまくる人がいました。今は同じことがFacebookで起きていて、「ツイッターは終了。Facebookはここが素晴らしい」と書きまくる人がいます。どれもこれもある程度正しいのですが、本質的には間違っています。間違っている点が何かといえば、「ツイッターは無敵なくらいに素晴らしい」とか、「Facebookは無敵なくらいに素晴らしい」という考え方で、どちらのシステムも、「使いこなせばそれなりに便利だけれど、所詮は流行りモノ」というのが本質です。じゃぁ、全然ダメかといえばそんなこともなく、ミクシィにしても、Twitterにしても、爆発的に利用者が増大するわけでもなく、かといって一気に減少するわけでもなく、インフラの一つとして、あるいは空気のような存在として存在し続けることになるでしょう(どこかに買収されたりしない限りにおいて、ですが)。おそらく、Facebookも、近い将来、ミクシィやTwitterと同じような場所に落ち着くと思います。今は、「みんながやっているからやってみよう」という人たちがFacebookに登録する作業が一巡したぐらいで、もうそろそろ限界が見えてきた感じです。
先日、経産省の同窓会に行ってきたのですが、参加者は現時点で室長クラス、僕がいたときの補佐や係長4人でした。途中、Facebookの話になったのですが、5人のうち、Facebookを使っていたのは僕だけでした。その僕も、「そろそろオワコン」という認識で、「役に立つのはイベント機能と書類共有機能だけ。現実に存在する人間関係をネットに持ち込んだだけで、それが可視化される分、居心地が悪いことが多い」というスタンスでした。Twitterの潮時宣言をしたのが拙著「Twitter後のネット社会」でしたが、Facebookもそろそろそういう時期に来た気がします。
ミクシィの時も、Twitterの時も同じでしたが、Facebookも、信者たちはそれが「公共インフラ」になると信じています。しかし、そんな時代はまず間違いなく来ません。私は、特にFacebookの寿命は短いと予想しています。Facebookが一番ダメなのは、方向が「制限」だということです。池田信夫さんがブログのコメント欄を閉じてFacebookのコメント機能を設置したのが象徴的なのですが、池田信夫さんは自身のブログの記事への誹謗中傷を避けるために、はてなブックマークを利用できなくするとともに、ブログに付属していたコメント機能を排除し、基本的に実名での投稿になるFacebookのコメント機能を利用することにしました。おかげで池田さんのブログへのコメントはある程度池田さんにとって居心地の良い内容にスクリーニングされたようです。しかし、これは単に「都合の悪い情報から目を背けただけ」のことです。池田さんはもう結構な年齢で、社会に対する発言力も大したことがないし、将来性もあまり感じられない人です。加えて物凄い頑固者なので、池田さんに限れば、このやり方は正解だったと思うのですが、「これから先」がある人たちにはちょっと薦めにくい、下手くそな対応だったと言えます。批判にいちいち反応・対応する必要はもちろんありませんが、批判は批判として見えてくるような窓を設置しておくべき、というのが私の考え方です。そして、Facebookとは、こうした窓が自然に閉ざされてしまうシステムです。特に日本のようなムラ社会気質の国民性においては、「自分たちにとって居心地の良い情報」だけが純化していく、当事者にとっては非常に気持ちが良く、第三者にとっては非常に気持ちの悪いコミュニティ(代表例はオウム真理教)が形成されていきます。同じ事をすでに私たちはミクシィで経験していますが、Facebookも同じです。
私などはFacebookだろうがどこだろうが馬鹿には馬鹿と言うし、デブにはデブと言いますが、こういうタイプの人間は日本社会では稀です。ですから、私が今、Facebookで馬鹿に向かって馬鹿というと、その馬鹿はより純化が進んで味方ばかりのミクシィに行って、「こんな酷いことを言われた」と泣きつきます。これはFacebookにおいてはまだミクシィほど純化、カルト化が進んでいないからですが、早晩ミクシィと同じ状況になるでしょう。
ちょっと言葉を変えて、Facebookというシステムがダメな(というか、日本ではあまり発展しないと考えられる)理由を書いてみます。
Facebookは、日本人が非常に苦手な「比較」を可視化するシステムです。比較されるものは、学歴だったり、年齢だったり、性別だったり、職歴だったり、資産だったりします。Twitterでは基本的に「発信された情報の質」によって情報発信者が評価されましたが、Facebookでは、情報発信者に学歴や年齢、肩書きといったタグがついています。ちょっと気の利いたことを書いたとしても、「あいつ、偉そうなこと言っていて、◯◯大学かよ」みたいな評価を受けます。じゃぁ、Facebookはそういうギスギスした空間になるのかといえば、表向きはそんなことはありません。表面上は仲良しを装いつつ、裏でこっそり「あいつは二流大学だから、どうでも良い」とネグレクトすることになります。要は、日本の実社会で行われていることが、ネット内でも全く同じように行われるのです。結果として、Facebook内での交流の方向は限定的になり、クラスターはカルト化し、ムラ社会が形成されます。ミクシィではこうした現象が趣味の領域で発生しましたが、Facebookではそれが学歴や会社などの領域で起きています。その点、Twitterは方向が逆(身分などから発言を分離する方向)なので、比較的長持ちした印象があります。しかし、Twitterのように極端に「発言だけを評価する」システムも、付随的に発生してきた各種システム(代表例はTogetter)によって発言はストックされ、発言者は「面白い人」と「それ以外」に二極化し、「それ以外」にとっては「面白い人」の発言を読むだけのシステムになってしまってきています。
所詮、世の中には、面白いことを継続的に発信できる少数の人と、そうでない人しかいません。そして、圧倒的多数の「つまらないことしか発信できない人」(=凡人)も、自分の発信する情報は誰かに読んで欲しいのです。人間は本質的に社会的な生物ですから、自分の存在は他者に認識して欲しいという欲求を持っています。だからこそ、ソーシャルメディアに飛びつくのです。Facebookの場合、ミクシィにも、グリーにも乗り遅れたやや高齢の高学歴層が飛びつきました。高学歴層はすでに自分のネットワークを持っているし、そこそこ高齢であれば「自分の部下」が自分の話を聞いてくれます。だから、特段、新しいソーシャルメディアに参入する必要がありませんでした。しかし、Facebookが既存のソーシャルメディアとちょっと違っていたところは、「既存の人間関係をそのままネットに持ち込んでいた」点です。つまり、上司と部下の関係とか、一流大学の同窓生とか、そういった「自分が発信する情報の面白さ」とは無関係のところで、自分を優遇してもらえるシステムでした。「あぁ、一からやらなくて良いのか。あぁ、面白い情報を発信しなくて良いのか」と、多くのつまらない大人たち(笑)がこのメリットに目をつけたわけです。
Facebookの利用者にありがちなのが、良い大学を出ていて、社会的ステータスがそこそこ高く、友達が100人以上登録されているのに、発言を全くしない人です。もともと情報発信に慣れていないし、Twitterなどでは恥ずかしくて何も書けず、とはいえ自分の存在だけは他者に認識して欲しいという人たちなので、ただただひっそりと存在しています。そんな人たちにとってうってつけの機能がFacebookには2つあって、それが「挨拶」と「いいね」です。挨拶ボタンなど私は使ったことがないのですが、おそらく「こんにちは」と、相手に表明するだけの機能だと思います。語ることは何もないけれど、存在を認識して欲しい人にはとても便利なはずです(私には全く意味が理解できませんが)。「いいね」ボタンについては、自分の友達に記事を紹介する機能が付随しているようなので、ただの無駄撃ちとは異なりますが、自分の意見を表明していない点は一緒です。
「実社会ではそれなりに評価されている人」で、かつ「ネット内ではただの凡人」を救済できるシステムがFacebookだったのです。
言葉を裏返すと、実社会ではそこそこ評価されている人にとって居心地が良い場所は、実社会ではあまり評価されていない人にとって居心地の悪い場所です。そして、それが「友達の数や質」などによって可視化されます。加えて、「どんな大学を出ているか」とか、「どんな肩書きか」とか、面倒くさい付帯状況がラベリングされてきますから、庶民にとってこんなに居心地の悪い場所はありません。要は、「日本的上流階級」のためのシステムなのです。これだけでも私にとってはちょっと気持ちの悪い場所なのですが、個人的にFacebookが嫌いな点はもうひとつあって、それは「システムがストックに対応できていないこと」です。表現が難しいかも知れませんが、蓄積された(=ストックされた)情報へのアクセシビリティが低く、目的とした情報に到達するのが非常に難しいという意味です。もっと簡単に言うなら、検索性が低い、となるのですが、「あれ?以前書いたあの記事、どこだっけ?」と思っても、その記事を見つけることが非常に難しいのです。目的としている情報にアクセスしにくい、という点では、FacebookはTwitter以上に不便です。ですから、私のようなストック型の人間には非常に居心地が悪い環境です。ところが、そもそも面白い情報や役に立つ情報を発信していない人なら何の問題もありません。結果として有意義な情報は発信されず、刹那的な、消費スピードが高い情報だけがやり取りされることになります。
ちょっとTwitterに話を戻すと、TwitterではFacebookよりも面白い情報がやり取りされています。Twitterも、Facebookも、「世の中つまらない奴が多い」という現実をいかにわかりにくくし、つまらない人間でも居心地が良い状態にすることに腐心しているわけですが、その方向が180度異なります。Facebookは、学歴とか、住んでいる場所とか、社会的ステータスを持ち込むことによって、「つまらない人間の中で、一定のラベルを持っている人間を救済する」ことに成功しましたが、Twitterはそういったラベルを極力排除し、情報を大量に発生させ、「数撃ちゃ当たる」という状況を作り出しました。前述のようにTwitterのこの戦略はストック・システムによって崩壊しつつありますが、個人的にはなかなか面白い試みだったと思いますし、だからこそ、短命のネットシステムの中において比較的長い期間、評価されつづけているのだと思います。
さて、Facebookは「つまらない奴」のうち、実社会で評価されている人を救済したわけですが、その他の「つまらない奴」の行き場所がない、という状態には変化がなく、むしろ隠れる場所がどんどん減ってきているという現状があります。他人と一緒であることが最大の美徳であり、他人と一緒であることによって「つまらない自分」を隠すことができたのが日本社会でしたが、徐々に「つまらない奴」が顕在化されつつあります。私はこういう理由によって、「農耕民族」「村社会」的な日本社会が内部崩壊を始めてきていると感じています。内部崩壊と言っても、村社会構造が崩壊するという前向きな話ではありません。村社会でありつつも、それがあまり表面化しなかった日本社会が、その事実をまざまざと見せつけられることによって、諦めにも似た雰囲気となりつつあります。
雨後の筍のように次から次へと現れてくるソーシャルメディアですが、その寿命はせいぜい10年程度でしょう。コンテンツ(画像とか、動画とか、テキストとか)の価値は長持ちしますが、ネットワーク(人間関係とか)は長持ちしないのが世の常であって、だからソーシャルネットワークシステムは長持ちしないのだと思います。それはFacebookと言えども同じです。じゃぁ、Facebookは全然ダメか、なくなったほうが良いシステムなのか、といわれればそんなこともなく、例えば「イベント機能」とかは非常に便利で、これだけのためにFacebookは存在しても良いくらいだと思います。それは、ミクシィがコンサートのチケットのやり取りにおいて一定の威力を発揮するのと同様で、部分的には、使いようによっては非常に便利なのです。ただ、ちょっと違うよな、と思うのは、Twitterのときも同じでしたが、「これは凄い」「これを使わないのは馬鹿だ」「これこそが次世代の公共インフラだ」などと旗を振る信者たちに対してです。
インターネットは公共インフラですが、FacebookもTwitterも、非常に個人的なシステムで、公共インフラではないのです。一部の自治体などでFacebookを公共インフラとして利用する動きがありますが、これは間違った方向だと感じます。もし信者の皆さんが「次は公共インフラとしてのFacebookの時代が来る」と考えているとすれば、私は「Facebookの時代は来る前に終わった」と断言します。
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