先日、さらさらっと読んだ本に、「小泉改革(=新自由主義)のお陰で若者は不幸になり、社会は不透明になった。それ以前は、みんなが定年まで会社勤めができて、安定した人生を送ることができた」ということが書いてあった。
はて、小泉改革とはそんなものだったのだろうか?甚だ疑問である。
僕が捉えている「小泉改革」とは、一言で表現するなら「公平な社会を目指す改革」である。もうちょっと突っ込むなら、「機会が公平な社会」である。
機会が不公平な社会、つまり、それまでの日本社会とはどんなものだったか。物凄くわかりやすく言えば、金持ちが良い学校に通い、良い会社に就職するような社会である。こういう社会では格差が固定化し、貧乏人はいつまでも貧乏人のままだ。医者の息子は医者になり、政治家の息子が政治家になる。
こうした状況を改め、たとえ貧乏な家の子供でも、きちんと勉強すれば良い大学に入ることができ、良い会社に就職ができる。そういう社会を作ることが、小泉改革の主眼だったと思っている。これは別に新しい考え方でもなんでもなくて、古くは福沢諭吉の「学問ノススメ」に書かれている。ここまでを読めば、「そういう社会になれば良いね」と多くの人が思うのである。ただ、副作用もある。「もちろん、逆もありますよ。お金持ちの子供だからって、安定した、幸福な一生を過ごせるとは限りません。努力しなければ良い大学には行けないし、良い会社に就職できるとも限りません」。
機会を公平にするということは、既得権者の既得権を奪うことである。
「あなたは金持ちですが、だからといって、その子供の将来は保証されません」
「あなたは良い会社に就職しましたが、その権利は定年まで保証されません。あなたが努力しないなら、その権利は剥奪されます」
「あなたは司法試験に合格しましたが、だからといって仕事があるわけでもないし、将来が約束されたわけでもありません」
既得権の形は色々あって、それを持っている人の方が多かったりする。また、全ての部分で保証されているわけではなく、ある人は財産について、ある人はステータスについて保証されているし、権利が付与される対象は個人ではなく会社の場合もある。それは、「この会社は大きい会社で潰れたら社会に対する影響が無視できないので、潰れないように政府が援助しよう」みたいなのがわかりやすい。
既得権は、なんだかんだで持っている人間のほうが多いから、「既得権を引き剥がしましょう」「機会を平等にしましょう」となると、目の前の権利にしがみつきたくなるのが人情というもの。旗を振っていた小泉さん自身もそうだったくらいなのだから。
#小泉改革が僕の中で色あせてしまったのは、小泉ジュニアが小泉元首相の地盤を引き継いで政治家になってしまったからだ。
##しかし、小泉さんの政治家としての行動原理は「郵政改革」にその源流があって、それを実現するための「機会の平等」だったのかも知れない。だから、郵政改革が達成できたところで、「機会の平等」がまだまだの状態にも関わらず、自ら引退してしまったではないか、と。
小泉総理という強力な牽引車(者)を失って、日本における「平等な社会への変革」は頓挫してしまった。「痛みに耐える」のは良いけれど、自分の痛みが他人よりも大きいのは嫌なのだ。それに目をつぶってでも先に進むためには、強力な、物凄く強力なリーダーが必要だった。小泉さんが退場して、もう日本では、機会が均等な社会は実現しないのかも知れない。
機会が均等でなければどんな問題が出てくるのか。
まず、社会が沈滞する。これは「安定」の裏返しだけど、チャレンジすることがなくなり、現状維持を目指し、攻めではなく守りの姿勢になりがちだと思う。社会全体が沈滞すると、社会全体が貧乏体質になる。機会が均等であっても格差は存在するのだが、社会全体が貧乏だと、底辺はより貧乏になるし、それを支援するお金も不足する。小泉改革の旗振り役たちは、「日本の不景気が長引いているのは、機会が均等ではなく、格差などの既得権益が固定化しているのが原因だ。だから、なるべく既得権をなくし、機会を均等化し、社会を活性化させよう」と考えたはずである。
もうひとつは、機会が均等でない場合に、誰が政治的意思決定するのか、という問題がある。「機会が均等ではない」とは、裏を返せえば「誰かが不公平な手段で決める」ということである。これまで、日本における意思決定は財務省を中心とした官僚組織がやってきていた。ところが、社会が多様化し、複雑になり、さらに変革のスピードがアップしてきたことによって、官僚の目が届かなくなってきた。さらに、守りに入った既得権者達が様々な方法で官僚たちをがんじがらめにして、身動きをとりにくくしてしまった。守りに入ったのは官僚組織自体も例外ではなく、何かというと海外の前例を調査し、その上っ面だけを取り入れたりするようになったようだ。日本オリジナルの政策というのはほとんど見たことがないように思う。こうして日本社会の舵取り役だった官僚システムが弱体化した現在、もはや社会を牽引していくリーダーはいないのである。不公平ではあっても、その決めた方針が妥当であれば社会はうまく回る。つまり、非常に有能な独裁者が君臨するなら、国民は幸福なのだ。ところが、その独裁の機能が低下してしまった。もはや、それができる組織が日本には存在しない。だから、日本の景気は回復しないのである。そこで、小泉改革の旗振り役たちは、「意思決定は市場にまかせよう」と考えた。市場が正常に機能するためには、徹底した情報公開が必要になる。ところが、日本人はこれも苦手である。不祥事があれば隠蔽するし、ライバル会社とは競争する前に根回しをして談合をする。この体質を改善することは非常に困難だ。なぜなら、ひとりだけがムラ社会から抜け出てしまえば、損をするのは正直者だけだからだ。
公平な社会にするのか、不公平な社会にするのか。
こう聞かれたら、誰でも「公平な社会にしましょう」と答えるはずだ。でも、「それなら、あなたはクビです」となると、「え?」となる。
権利を持たない人に機会を与える社会とは、同時に能力のない人から権利を奪う社会なのだ。そして、長い間、人によっては30年以上も、能力がなくても権利が維持できるぬるま湯に浸かっていた人間たちの、少なくない部分が能力不足で、しかもリカバリーが効きにくい状態である。この状態で、一気に権利を引き剥がそうとしても、それは無理だろう。だからこそ、日本は八方塞がりなのだ。
こうした中で、「もう諦めよう。今までどおり、不公平なムラ社会で良いじゃない」と開き直るのはひとつの、有力な、かつ現実的でもある選択肢だと思う。ただ、その開き直りを隠して、「悪いのは小泉改革」とまとめてしまう姿勢は、どうも好きになれない。
「俺達は既得権者だ。俺が生きている間は、俺は幸せでいる権利がある。その結果、日本の社会が徐々に不活性化し、回復不能な状態に陥ったとしても、それは俺だけの責任ではない」
こう言い切るなら、なるほど、と思う。
僕は中央官庁で行政官の限界を見てきたし、大企業で終身雇用と年功序列の限界を見てきた。だから、政府は小さいほうが良いと思うし、企業は実力主義の方が良いと思う。既得権にしがみついて、自分だけは幸せでいたいという人たちも山ほど見てきて、その一方で、自力でなんとか稼いでいこうと頑張っている人間も、少数ではあるけれど、見てきた。その結果、形成された価値観は、既得権はなるべく排除したほうが良いし、機会は平等だった方が良いし、もはや機能不全に陥っている官僚に税金の分配を任せるよりは、市場に判断してもらったほうが良いというものだ。もうちょっと簡単に言えば、僕は「頑張っている人が評価され、幸せになれる社会」になって欲しいと思っていて、その範囲では公務員だろうが、大企業の人間だろうが、世襲議員だろうが、個人事業主だろうが、関係ない。これがいわゆる「新自由主義者」なのかはわからないけれど、残念ながら、今の日本においてマイノリティであることは間違いがないようだ。恐らく、次の選挙でも、僕が投票したいと思う政治家も、政党も見当たらないのではないかと思っている。
#よその選挙区なら、河野太郎氏個人(自民党の、という意味ではなく)には投票したいのだが、その河野氏も、自民党の総裁選では20人の推薦人を集めることができず、候補にすらなれなかった。
結局、この国は不平等であり続けたほうが都合が良い人、官僚任せで構わない人、若者から搾取して当面の老人たちの年金を維持するべきと考えている人、生産性の高低に関わらず同様に評価される社会の方が良い人の方が多いのである。そうした中にあっては、「小泉改革のお陰で若者は不幸になった」という考え方も一般的なのかも知れない。僕は絶対に違うと思うけれど。