重大なお話!
http://ameblo.jp/sakura-smile-for-you/entry-11582675117.html
この話では、最初に日刊スポーツがこんな記事を書いた。
土屋アンナ稽古ドタキャンで主演舞台中止
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20130729-1165097.html
読めばわかるが、背景などは調べられていない記事だ。これに対して原作者が書いたのが、冒頭のブログエントリーである。その間、わずか約2時間なので、記事自体は準備稿のようなものがあったのかもしれない。その後、日刊スポーツは次のような記事をアップしている。
突然泥沼化!土屋アンナ舞台中止
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20130730-1165120.html
土屋アンナ、原作者承諾巡り主演舞台中止
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20130730-1165130.html
「突然泥沼化」も何も、あんた達がちゃんと取材しないで報道したからなんじゃないの?と思わないでもないのだが、今朝の段階では双方の意見を書いているし、そこが本題ではないので今回はスルーしておく。問題は、原作者の訴えた内容の方である。以下、目につくところを抜き出してみる。
実は、最初の段階でこの舞台の話に関して、私は制作者側から全く許可を取られていませんでした。
何日か後に、こちらから連絡を取り、本の出版社の元担当と舞台の監督に会う事が出来、事情を説明して頂きました。
私はただ、自己紹介と今後何かありましたらよろしくお願いします。と言いました。
その事を、許可を取ったと言っているようでした。
お二方の言い分は、それがこの業界では許可した事になるのだ。という事でした。
私は何度も、それでは許可にならない。と言いました。
すると監督は"そんなに許可と言うのなら、別に貴女でなくとも、障がい者はたくさん世の中にいる。違う人に頼んでも良いんだよ!"とおっしゃいました。
また、原作とは内容が多少異なるため、そんなに許可と騒がなくてもいい、と言う事を言われました。
私の所にはただ一枚の舞台の同意書のみを送りつけ、台本も詳しい内容説明もない状態で、毎日のように同意書にサインするように、と言う内容の電話ばかりかけて来ました。
こうした不満を読み解くには、出版社と著者の間にどんな契約が交わされていたのか、というのが最大のポイントなのだが、こういう契約書は会社によって大きく変わるものとも思えないので、僕がある出版社と交わしている契約書のうちの一つを転載してみる。
(二次的利用)
本契約の有効期間中に、本著作物が翻訳・ダイジェスト等、演劇・映画・放送・録音・録画等、その他二次的に利用される場合、甲は乙と協議のうえ決定する。
残念ながら光文社とは仕事をしたことがないので、現物は見たことがないのだが、内容に大きな違いがあるとは思えない。普通、二次利用については別途相談となるはずである。ただ、問題は法律とは別のところにあるのだと思う。
追記:Twitterで光文社との出版契約書について言及されている方がいたので、掲載しておきます。ただ、これも原本ではないので、今回の件については違う契約だった可能性もあります。
-@product1954私が光文社とかわした出版契約書の中で「著作物の二次的利用」については「甲(著作権者者)はその利用に関する処理を乙(出版者)に委任し、乙は具体的な条件について甲と協議のうえ決定する」と明記されています。条件を提示しなかった出版社側の契約違反です。 @from41tohomania
2013/07/30 07:48:27
ある有名小説家と麻雀をしていて聞いたことがあるのだが、原作者である彼が知らないうちに、彼の原作を元にしたテレビドラマ内で、小説内の重要人物が勝手に犯人にされてしまったことがあるそうだ。ドラゴンボールで言えば、実写ドラマ化したら、途中でクリリンがフリーザのスパイだったと判明して、元気玉で粉々になってしまった、みたいな感じである。短期間でメリハリをつける必要があるテレビドラマでは仕方がないことなのかも知れないが、このとき、原作者には一切の打診がなかったそうである。テレビサイドには「それで原作本が売れるんだから、原作者にも悪い話ではないだろう」という意識があるのだろう。この作家の場合、設定だけを残して映画化され、その試写会で初めて内容を知ることになって、その内容の杜撰さにびっくりしたこともあったそうだが、彼はそのことについて特に文句をいうことはなかったようである。麻雀の席で愚痴をこぼす程度で、そういった話が表面化することはない。逆に、表では「映画観てきました。凄い!」と宣伝せざるを得ない立場だったりする。
作家自身がそういう状況を受け入れていることもあってか、テレビ関連の作品でメジャーになった作家は、文学界ではひとつ下のランクと評価されるケースがある。過去の実績とか、テレビ化されたかどうかとは無関係に作品自体を評価すべきなのだが、看板が重要なのがこの世界だったりもする。結果として、作家や作品へのリスペクトは失われ、メディアが権力を振り回すことになる。今回の件も、そういう権力の濫用が感じられるのである。
僕は、作品自体ではなく、看板によってものが売れたり売れなかったりするのは日本に特有の話なのかな、と思っていたのだが、つい先日、ハリポタの作家が覆面で書いていた小説が、その真相が暴かれた途端にバカ売れしたという話(http://www.cnn.co.jp/showbiz/35034674.html)もあって、「あの作家」という看板が重要なのは世界中どこでも一緒らしいことがわかった。ハリポタの作者ぐらい余裕があれば「ゼロから再スタートして実力を試したい」と思うのかも知れないが、日本語でしか文章が書けない、市場の小さな日本の文筆家は、なかなかそういう地位には上り詰めることができない。結局、メディアの軍門に降るしかないのが実情である。
書籍に限る話ではないのだが、作家である僕の立ち位置から書いてみると、「本が売れる」ためには、内容が優れているだけではなく、プロモーションも大事で、だからこそ広告代理店なんていう商売が成立する。そういう商売が不要だとも思わないのだが、上下関係が逆になってしまうのは不思議な話である。これが出版社ということならある程度話はわかるのだ。例えば僕のような無名の作家の書籍をリアル書籍化しようと思えば、出版社は相応のリスクを負うことになるからだ。
ところが、今回の事態では、多分出版社サイドにも問題があったのではないかと予想する。出版社にとっては、有名俳優による舞台化は決して悪い話ではない。舞台がヒットすれば本も売れるのだ。そして、契約次第ではあるものの、舞台化にあたって負うリスクは多分それほど大きくなかったはずだ。出版社の担当者も、「本が売れれば著者も嬉しいに違いない」という思い込みがあったんだと思う。そして、著者の意向が完全に無視され、出版社と舞台のプロデューサーとの間で話が進められたのだろう。
3者の間の少しのズレが、結果として致命的な行き違いを生んでしまったのだと思う。ただ、だからといって著者がとばっちりを食うのはおかしい。この件においては、今のところの情報で判断する限り、著者にはほとんど否がないのである(ただ、出版契約書の内容を見てみないと、断言はできないのだが)。一番尊重されるべき著者が、一番弱い立場に置かれているのである。
こういう構造は、技術者よりも事務が偉かったり、研究者よりもマネージメントが偉かったりするのにも通じるところがあると思うのだが、実際のところ、一番偉いのはクリエイターであって、そのところが軽視される社会は成熟度が低いと思う。
さて、ここまではほとんどの人が納得すると思うのだが、それは広告代理店やら、出版社やら、イベントプロデューサーやら、向こうの世界の話だからである。ここでもうちょっと身近なところに話を引きずり下ろして、これを読んでいる人を当事者にしてみたい。
クリエイター軽視の卑近な例は図書館である。そして、「図書館は有料化しろ」と言うと、あちこちから反対意見が飛んでくる。そのほとんどは「貧乏人の読書機会を奪うな」というものだ。僕も、夏目漱石や太宰治や芥川龍之介の本を借りるのにお金を取るべきだとは思わない。お金を取るべきは、宮部みゆきとか、東野圭吾とか、村上春樹とか、今も生きている作家たちの書籍についてである。どうしても文化が大事だ、図書館はその担い手だ、と言うのなら、図書館は著作者に図書館の負担でお金を支払うべきだろう。でも、図書館は貸与権を確保するために、非営利、無料で営業している。だから、支払うお金の原資がない。そこでとばっちりを食っているのが著者という弱者である。「貧乏人にも読書の機会を」という主張は全面的に否定するわけではない。ただ、その主張を隠れ蓑にして、無料で読む必要のない本が貸し出されたり、本を買えないほど貧乏ではない人に貸し出されたりすれば、しわ寄せは著者に一方的にくることになる。著者は、一番偉いはずなのに、一番脆弱な存在なのである。
町工場の職人は親会社がなければ仕事がない。実験に明け暮れる企業の研究者は会社が潰れたら路頭に迷う。書籍の著者は本が売れないと食っていけない。どれもこれも、社会システムの中に組み込まれないと生きていけない職業である。ただ、社会がそこから搾取し続けていれば、社会自体のレベルが低下する。弱小の著者がメシを食って行けなければ、新しい才能は生まれてきにくくなる。その結果、損をするのは一般読者自身なのだ。
創作活動でメシを食っていくのは非常に難しい。そして、それをサポートするには相応のリスクを負う必要がある。しかし、ネットが行き渡ったことによって、そのリスク自体は徐々に軽減されてきている。小説で言えば、電子出版によって、かなりの構造変化が期待できる。ただ、どの分野においても、構造変化には既得権の争奪戦がつきまとう。その戦いは、消耗戦だ。しかも、既得権者側は、「自分が生きている間だけでも」と思っているから、持久戦も覚悟のうえである。
日本の最大の対立構図は老人対若者という世代間闘争だと思うのだが、それに次ぐレベルで、創造者対利用者という対立が明確化しつつあると思う。今回の一件も、誰もが簡単に情報発信できる社会でなければ、泣き寝入りになっていたはずである。