2013年12月17日

やまいち

私が一番数多く通ったとんかつ屋は、恐らく「勝漫」である。会社に入ってまもなくのとき、会社の先輩に、「少し歩いたところに美味しいとんかつ屋がある」と連れて行ってもらったのが「勝漫」だった。それまで、私の中でとんかつ屋と言えば、大学から電車で一本で通うことができた、目黒の「とんき」だったのだが、「勝漫」のとんかつを食べてみて、あまりにも繊細で上質なとんかつにびっくりした。「とんき」がダメというわけではないけれど、なるほど、一口にとんかつと言っても、色々なんだな、と気が付いた瞬間だった。当時はまだ駆け出しのラーメン評論家で、とんかつよりラーメンを食べる頻度が多かったのだが、ラーメンの合間を縫ってとんかつを食べるようになったきっかけの店である。これが、90年代前半の頃である。以後、「勝漫」には幾度となく通った。厨房からときどき鋭い視線を投げかける職人さんも、ときどき目元だけで「また来たな」と語っているように見えてくるようになった。

さて、その勝漫が転機を迎えたのが2007年だ。それまで長い間厨房を仕切っていた松井孝仁氏が店を抜けてしまったのである。このあたりの事情は良くわからないのだが、それからほどなくして、松井氏は勝漫のすぐそばに新しいお店をオープンした。それが、この「やまいち」である。長い間厨房を仕切っていた職人が、わざわざ元の店の目と鼻の先に新店を構えるというのだから、背後にはのっぴきならない事情があったのだろう。開店当時の私のレビューはこんな感じである。

いつもどおりに特ヒレを注文。値段は2100円で、勝漫より200円ほど安い。何で食べようかな、と思ってテーブルをチェックしてみたら、柚子胡椒が置いてある。とんかつを柚子胡椒で食べたことはないのだけれど、ちょっと面白いかな、と思ってこれで食べてみることに。

肉は勝漫のときとほぼ同じ印象。厚さ、やわらかさ、ジューシーさ、火の入り具合など、ほとんどの点で満足。衣も薄すぎず厚すぎず、それなりに粗さがあって食感が良い。ちょっと油の温度が高めなのか、勝漫時代よりもやや香ばしい感じがあり、またパン粉が固めの印象もあるのだが、特に気になるほどのものでもない。柚子胡椒で食べてみるとごま油の風味とマッチして、なかなか美味しい。せっかく衣がぱりぱりしているので、ソースをかけるのはもったいない。塩でも一切れ食べてみたのだけれど、どうも柚子胡椒の味が気に入ってしまい、残りは全部柚子胡椒で食べてしまった。

キャベツも普通に美味しいし、ご飯、味噌汁も美味しい。ご飯は勝漫に比較するとやや硬めに炊かれていて、僕は実はもうちょっとやわらかめ、つまりは勝漫タイプの方が好きだったりするのだけれど、これは丼で使うことを考えてのことかもしれない。量はたっぷりすぎるくらいである。


一方で松井氏が抜けた「勝漫」は何度も職人が変わり、そのたびに味がぐらついてしまう迷走が続いていた。良い時もあれば悪い時もあり、しかし、良い時でも松井時代の味を取り戻すには至らない、という状態だった。淡路町のとんかつ勢力図は、以前の勝漫一人勝ちから、やまいち>勝漫へと塗り替えられてしまった。

ところが、まさに諸行無常。再び淡路町のとんかつ勢力図が動き出す。そのきっかけは、やまいちの店主松井氏の逝去である。大変残念なことに、2013年5月に食道がんで亡くなられてしまった。長期の休業の後、今は昼だけの短縮営業を再開したところだ。厨房には松井氏の奥さんが入られているそうである。メニューからは特ヒレ、特ロース、かつ丼などが消えて、ヒレかつ定食、ロースかつ定食だけになっている。

さて、その新生やまいちで、ヒレかつ定食を食べてみた。




かつを一口食べてみて、「あぁ・・・」という気持ちになった。味わう以前に、肉の下処理が甘いのである。肉の筋がきちんと切られていないので、肉が噛み切れない。折角良い肉なのに、その良さを引き出せないでいる。揚げ具合も模索中のようで、衣には十分に火が通っていない。これがわざとならそれはそれで一つの見識なのだが、隣の席に座ったお客さんの衣を観察してみたところ、そちらはきちんと火が通っていた。また、油のキレ具合も甘かった。肉の質そのものは非常に良く、満足がいくものだったので、完全に技術的な問題である。こうした問題点をお店の方でもわかっているからこそ、特ヒレや特ロースといった上位メニューや調理が難しいかつ丼の提供をストップしているのだろう。

漬物は標準的、ご飯と味噌汁はなかなか美味しかった。










同行者にロースかつを一口食べさせてもらったのだが、こちらもちょっと油のキレ具合が悪く感じた。




残念ながら、かつてのやまいちの味は、失われてしまった。すぐそばの、勝漫の味を上回るのにもそれなりの時間がかかりそうである。とはいえ、お店のサイドでも問題点には気付いているのだから、やまいちは必ず復活すると思う。これまで長い間故松井氏のとんかつに楽しませていただいたのだから、先代の味がよみがえるその時まで、微力ながらこの店の応援を続けたいと思う。




店名 とんかつ やまいち
TEL 03-3253-3335
住所 東京都千代田区神田須田町1-8-4 玉井ビル1F
営業時間 [月〜金]11:00〜14:20(LO) [土]11:00〜14:00
定休日 日曜日祝日

この記事へのトラックバックURL

この記事へのコメント
既にご存知かもしれませんが(そうだったらすみません)、現在は「特」付きやかつ丼があるようです。
Posted by 理奈 at 2016年07月06日 13:56
情報ありがとうございます。

そろそろ味も安定してきたのでしょうか。今度日本に行くときは、訪問してみようかな?何しろ、この店のご主人にトンカツの味を教えていただいたようなものなので。
Posted by 元木 at 2016年07月07日 03:45