2016年10月09日

なぜ日本の労働市場は変わらなくてはならないのか

電通の若手社員が過労による自殺をした件を端緒に、日本の労働環境について考えてみる。

巷には「100時間で過労死なんて情けない」という考え方もあるようだが、これは実際に過労死している現実を踏まえているとしたら、不適切な意見だろう。残業耐性には個人差があって、できる奴もいればできない奴もいる。できる奴が自分の意思で残業するのは勝手だが、そのルールを他人にも押し付けるのは迷惑な話である。僕も残業という概念でくくるなら月間200時間ぐらいの残業をしたことがあるし、知人の中には二カ月連続で400時間の残業をやった奴もいるが(参考「人はどれだけ残業できるのか」http://buu.blog.jp/archives/51435509.html)、だからといって誰でもそんな状態で耐えられるとは思っていない。嫌なのに強制されるなら、違法なものは違法であって、根性論でどうにかなるものではない。その辺は、裁判の結果を見れば明らかである。

しかし、「過労で自殺」みたいな話があるたびにすぐに飛びついて「残業規制を強化すべし!」と怒鳴り散らす社会主義者たちも迷惑である。闇雲に規制強化に走れば、ただでさえ低下している日本の競争力がさらに低下するだろう。今の日本がなんとか踏みとどまっていられるのは、少数の精鋭たちが死ぬほど働いているからでもある。たとえばサッカーの本田選手が不調に陥って、普段の倍練習したとして、「その練習は違法なのですぐにやめるように」と本田選手に主張する人がいるだろうか。宇多田ヒカルが働きすぎとか、園子温監督が働きすぎとか、羽生名人や渡辺竜王が将棋を指しすぎとか、浦沢直樹や他の超売れっ子の漫画家が描きすぎとか、超売れっ子の俳優が働きすぎとか、そういう文脈で労働時間の違法性が論じられたことを、これまで僕は寡聞にして知らない。真のプロが、自分の意思と裁量で働く限り、他者が口を出すべき話ではないと思う。

全員働け、も暴論なら、全員働くな、も暴論なのだ。農耕民族としての団体行動思考が染み付いている多くの日本人には理解できないかもしれないが、先に書いたエントリーで述べた「研究は個人的なもの」というのと同様に、労働も個人的なものであるべきだ。価値観が多様化してきた今、僕たちの労働は、もっと高い自由度が確保されているべきなのである。それは、個人の日常の働き方というレベルにおいても必要だが、職業を選ぶ際にも必要になる。過労死という視点では、個人の自由意志による「働き方」よりも、会社という共同体の中において労働を強制される可能性がある「職業」の方が深刻なので、職業選択の自由度に焦点を当てる。

職業の自由度を考える際には、どういう選択肢があるのかをまず考えなくてはならない。選択肢にはどのようなものがあるのか。定性的に大きく分けて、2つである。それは、

(1)自由度と給与が高い代わりに、リスクも高い職業
(2)自由度が低く給与も低いが、安定していて保護も手厚い職業

である。

一つ目はいわゆるホワイトカラーである。なぜかホワイトカラーを残業規制から外そう(ホワイトカラー・イグゼンプション)という動きに対して反対運動が起きるのだが、その理由の最大のものは、日本の労働環境が終身雇用前提とされているからだろう。米国なら、「嫌ならさっさとやめちゃえば良い」が成り立つが、日本ではそれが成り立つかどうか不透明なことが問題になると想像される。では、日本の労働者はなぜ会社を辞めることができないのか。これも理由は二つあって、一つは労働市場が硬直していて、転職が難しいことである。もう一つは、企業でホワイトカラーに認定されそうな、年収1000万円以上とか、自己の裁量で仕事量を調整できるとか、知的教育による高度な知識を持つはずの労働者たちの少なくない部分が、期待されているようなスキルを持ち合わせていないことである。簡単に言えば、「転職先がない」「転職するための能力がない」である。この二つの問題はどちらかを解決しても、それだけでは労働市場は流動化しない。そのせいもあってか、いつまで経っても労働市場の流動化は実現しないのだが、その根底にあるのは既得権者たちの反抗なのである。

選択肢が用意されても、労働市場が流動化していなくては意味がない。今の日本の会社は乗客が満員の飛行機みたいなもので、みんな降りようとしないし、降りても、それ以外の便が全部満席で、一度降りたら最後、どこにも空席が見当たらない状態だ。離陸前に気分が悪くなっても乗り換えできないし、途中で降りることはもちろんできない。「労働市場は流動化していた方が効率的ですよね」という意見には偉いセンセイたちはもちろん、感度の高い生活者も同意するのだが、それが解雇規制の緩和とセットになると、突然反対に回るから困る。解雇規制がガチガチの状態では、そもそも空席が生じないのだから、労働市場が流動化などするはずがないのだが、民間企業でまともに働いたことのない学者センセイたちはその辺が理解できずに机上の空論を展開するばかりである。こうした無能な研究者がいつまで経っても退場しないのも終身雇用の弊害で、三菱総研というそこそこでかい民間企業、理研という特殊法人、経済産業省、民間企業の雇われ社長、そして現職の創業社長と色々渡り歩いてきた僕から見ると、俺の方がよっぽど専門家だろ、と思ってしまうが、彼らはせっかくアカデミアの職に就いた既得権者なので、顔を真っ赤にして反論するに違いない。大丈夫ですよ、あなたたちの職を奪う気なんてさらさらないですから。

さて、まずはホワイトカラー以外の人たちについて考えてみる。ほとんど何のスキルもない人の受け皿は必要で、それは英語で言えば「JOB」である。何のスキルアップにも繋がらないし、特別なスキルも必要ないが、時間を割くことによってお金を稼ぐことができる。ここで必要になってくるのが最低賃金の引き上げで、米国の都市部だと1500円から1800円程度だ。ちょっと話がそれるのだが、米国の場合、最低賃金が高いので、人の手が必要なファストフードの価格は高い。マクドのビッグマックが一つ500円程度である。ところが、食品の原価は安いので、ビッグマック二つで520円だったりする。この手のセット売りはファストフードやスーパーでは常態化している。そして、工業製品は安く、人の手がかかっている食品は高い、となるので、低所得者たちは自分で食材を買ってきて料理したり、5枚で500円の冷凍ピザを買ってきてオーブンで焼いたりする。米国で外食するとチップ込みで2000円はほぼ最低料金なので、日本でいうファミレスのような業態は成り立たないし、コンビニの夜間営業も淘汰されるだろう。しかし、米国で暮らしてみればわかるが、コンビニの深夜営業がなくても、何も困ることはない。コンビニの深夜営業がないと困ってしまうようなライフスタイルの方が問題なのだ。こんな感じで、最低賃金を二倍にするだけで日本の特に都市部の生活は大きく様変わりするだろうが、大きな問題ではないだろう。ともあれ、JOBで稼いでいく人たちの収入源はきちんと確保しておく必要がある。

要すれば、受け皿としてそこそこの給料を貰える職場はありますよ、だから、スキルがなくても大丈夫です。その代わり、外食とか、贅沢はできないから、自分で工夫して下さいね、ということだ。こうした職場の量は米国ではかなり重視されていて、それが減少しないように、海外からの移民に対してはそれなりに厳しい姿勢でいる。日本は、弱者の労働機会を確保する、という視点がほとんど存在しないので、生活保護のような、まったく社会に貢献できない人たちが生まれてしまう。

また、こうしたスキルのない人たちでも、それなりに職業を選択する自由が保証されている必要もある。今やっている仕事に飽きたり、嫌になったなら辞めて違う職につくだけの自由度が必要なのだ。これは雇用サイドへの圧力にもなる。きちんとした労働環境を与えることができなければ、すぐに人手不足に陥る、という状況は、労働者の職場環境の向上に、直接つながる。

スキルのない人たちにはスキルアップの機会が必要で、それはそれで別途考えていく必要がある。米国ではこの役割を果たしているのがcollegeあるいはcommunity collegeで、誰でも安価にスキルを身につける事ができる。やる気さえあれば、ステップアップのチャンスは与えられているのである。一方で、日本にはこういう組織は見当たらない。金を払えば学位をくれる、名ばかり大学が大量に存在するのだが、少子化の影響もあって経営不振に陥った大学は、海外からの留学生を集めて大学の体を為すのではなく、community college化に注力すべきである。また、ここで大事なのは入学者の年齢で、やる気さえあれば年齢とは無関係に、どんどん入学して勉強できる雰囲気作りが大切になる。ここで思い出されるのが2年ぐらい前の文部科学省の「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」である。この会議で冨山和彦氏が提出した資料がネットで議論を呼んだのだが、要は「トップ大学以外は職業訓練学校化すべし」という内容だったからだ。実は、冨山氏の論理展開と示した事例は非常に稚拙で叩かれてしかるべし、というものだった。簡単に言えば、彼の主張は大学を、大学の名称のままで職業訓練学校化しろというものだったからだ。しかし、職業訓練を主目的にするなら、それはもはや大学ではない。大学を大学ではないものに変えてしまえ、というのは暴論であろう。しかし、大学ではない組織として、職業訓練のための組織、米国でいうcommunity collegeが存在することは絶対に必要で、経営不振でどうにもならない大学が自主的にcommunity collegeへと改組するのであれば、それは歓迎されるべき話なのである。大体、社会から見たら、機能としては本来大学よりもcommunity collegeの方が重要になりつつあるのだ。

スキルアップの機会は米国では主として社外に存在するが、日本ではOJTという名の下に企業や役所の内部で実施される。ここがまた大きな問題の温床になるのだが、それはそこで身につけたスキルが他の会社では役に立たないことがある点である。また、その会社で行われるトレーニングで生き残った人しか存在しないので、肌が合わないと悲惨なことになる。そういった事態になったとき、受け皿が用意されていないのが日本の社会である。

米国の事例を中心に、スキルが高くない労働者をどう社会に馴染ませ、場合によってはスキルアップの手助けをすることについて書いてきたのだが、次はホワイトカラーについて考えていくことにする。

ホワイトカラーの労働環境に求められるのも、流動性である。実は、日本はホワイトカラーの多くがパーマネントの地位にあることが大問題なのだ。特に、年功序列によってスキルが不十分なのに高い地位にのぼりつめ、高い給料をもらっている人たちがお荷物なのだ。野球で言えば、40歳の大ベテランで、打率が1割、本塁打は0なのに、4番から微動だにしないようなものだ。監督が「ちょっと、ベンチに下がってくれないか」と相談すると、「それは判例で違法とされている」と言い出して交代を拒否する始末である。ここをなんとかしないと、本当にどうにもならない。空席ができなければ、次の人が座る場所がないのである。給料が高いのだから、能力不足を理由に解雇されるリスクぐらいは背負って欲しいものなのだが、日本はなぜかそうならない。安定と、高給の両方を既得権者が保持し続けるのが今の日本である。

ところで、ここで件の電通の自殺社員の話になる。あの社員はホワイトカラーではないのか、ということになるのだが、もちろん違う。彼女の場合、おそらく年収1000万円にはならないだろうし、自己の裁量で仕事量を決めることも不可能だった。これではホワイトカラーとは言えない。彼女は法律で守られるべきだったし、周囲からの配慮も受けられるべきだった。

ここで、三菱総研と中央官庁で働いた経験から、電通の仕事の難しさを書いておきたい。三菱総研と電通の仕事に共通する難しさは、「100点満点が存在しない」ということだ。どんなに努力しても、さらに時間をかければアウトプットが良くなる可能性がある。野球選手にホームランや完全試合のような究極の到達点があるのと違うところが悩ましい。そして、仕事はほとんど全て委託業務なので、客が納得しないならそれまでなのである。僕は経済産業省の役人としてシンクタンクを利用する立場になったこともあるのだが、その時に同僚から聞いた言葉は、「シンクタンクは生かさず殺さずだ」というものである。死なない程度に絞りあげろ、という意味だ。僕は広告代理店を使う立場になったことがないのだが、電通にとってのクライアントもおそらくこういう姿勢で、「広告代理店は生かさず殺さずだ」と考えているのだろう。発注者とすれば、少しでも長く受注者を働かせることが、アウトプットの質の向上につながる。本来なら、仕様書によってこのあたりの仕事の量と質を明確に規定すべきなのだが、受注の成否につながるので、仕様書はいい加減に書いておくのがこれらの業界の常でもある。おかげで作業はエンドレスになることが多い。相手を内容で満足させるのではなく、努力の量で納得させるのである。シンクタンクや広告代理店というとスマートなイメージかもしれないが、実際はこんな感じの古い体育会系の仕事だ。

「次の仕事」という餌をちらつかせられて、こき使われるのがこういった会社である。だからこそ、これらの会社の管理職は自己と、部下の管理が大切になってくる。不幸な事態は、全て人災なのだ。そして、社内での「使われる側」は、上長に対して常に「ノー」という準備が必要になってくる。一番難しいのは、このホワイトカラーと非ホワイトカラーの境界領域で、この間の調整は時間をかけて落とし所を見つけていかなくてはならない。そして、運悪く、自分の上司がこの調整作業がうまくできなかった場合は、まずは直属の上司にかけあい、それでもダメなら人事部にかけあい、やっぱり無理なら、辞めてしまえば良いのである。その時に重要なのが、「会社を辞めても、すぐに次の仕事が見つかる」という環境なのだ。

「つらい。やめたい」と漏らしている人がいたとき、「何いつまでもしがみついてんだよ、馬鹿だな。さっさとやめちまえ。何だったら、うちの会社の上司を紹介してやるよ。なんか、ちょうど人探してるみたいだから」と言ってあげられる社会にしなくてはならない。今は「私だけじゃなくて、みんな頑張っているから」と、孤立感を深め、一層のどつぼにはまっていくのである。

過労による精神障害と自殺の件数は、厚労省の資料によれば2015年度の決定件数だけでそれぞれ1306件、205件となっている。その背後には、発覚に至らないケースや、ちょっと手前で踏みとどまったケースが何倍も、あるいは何十倍もあるに違いない。そろそろ真剣に、労働環境の改善を考えたほうが良い。それは、労働者サイドから一方的に規制強化を唱えるのではなく、労働市場の流動化を目指して、解雇規制の緩和を含め、様々な角度から変えていかなくてはならないというのが僕の考えである。

米国が全てではないし、米国にも改善すべきところは多々ある。しかし、それ以上に、日本が米国に学ぶべきところはたくさんある。日本の古くからの習慣を良しとして、旧態依然とした労働市場を継続していることが、そのまま日本を世界の負け組に誘っていることに気付かなくてはならない。そして、その影響は、経済指標だけではなく、「過労による自殺者数」といった数字にも現れていると思う。

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