2016年12月19日

真田丸を最終回まで観てみての感想

第1話を観る前から、三谷幸喜がどこまでやれるのか、という一点に評価のポイントが絞られる作品だったのだが、終わってみれば不もなく可もなく、という感じ。最初から最後まで全話観たことを後悔することはないのだが、大満足かと言われればそんなこともない。

三谷幸喜の最大の特長はシス・カンパニー所属の役者をはじめとして、大量の三谷組とも表現できる芸達者な役者たちを投入できることである。芝居や映画のように時間の短い作品だと、「俺って、こんな役者でもちょい役で起用できるんだぜ」という姿勢が鼻につくのだが、50時間に及ぶ大河ドラマならそんな心配はない。

あとは、日本国民のうち、日本史をある程度まじめに勉強した人間なら誰もが知っているであろう豊臣方の悲劇的な結末をどうやって料理するか、ぐらいしか注目点がなかった。

ただ、始まってみると、良いところも、悪いところもあって、なかなか特徴的な作品になっていた。その中で、悪いところの代表は特定の登場人物が現代語を喋る点である。どこかで慣れるのかな、と思っていたが、結局最後まで慣れることはなかった。これは、昔の言葉を喋っている人物がいるのに、喋らない人物がいるという非統一性故だろう。今の朝ドラ(べっぴんさん)ほど不自然なセリフはなく、その辺はさすがに三谷幸喜という感じだった。

その他としては、有働アナのナレーションである。有働アナが悪いのではなく、彼女が言葉で説明せざるを得ないところに、三谷脚本のダメなところが集約されていた。「だれそれは、このあと、どこそこでこんな最後を迎える」みたいなナレーションは、少なければ少ないほど良い。そして、有働アナのナレーションの存在感が大きくなればなるほど、脚本の質が低いことになる。せっかく50時間もの長い時間を利用できたのだから、もっとナレーションの時間を減らすことができたはずだ。

そして、もうひとつ欠点を挙げるなら、主人公の父の方が魅力的で存在感のある人物に描写されてしまったことだろう。おかげで、父が死んで以後は消化試合の様相を呈してしまった。

では、良かったところはどこかと言われると具体的にはなかなか難しいのだが、暗い方向へ向かっていかざるを得ないストーリーの中に軽妙な笑いを配置して、暗いばかりではない内容にしたあたりはさすがに喜劇脚本家という感じだった。

役者は、さすがにNHKの大河なので、良い役者を次々に使うことができた。一部に滑舌の悪い役者もいたけれど、概ね、良い演技だったと思う。特に主役の堺雅人は父親や秀吉に翻弄される人物を好演していた。しかし、「篤姫」で十三代将軍徳川家定を演じた時から、舞台よりは映像向きの細かい演技が見事だったので、驚くほどのことはなかった。

ところで、こうを演じた長野里美は僕たちの世代にとっては第三舞台の看板女優で、それが遊眠社の看板男優上杉祥三と結婚した時は堀北真希が石田三成と結婚した時の衝撃とは比較にならないほどのショックを受けたものだが、今となってはこうですかぁ、という感じで、時間の流れの残酷さを感じるばかりである。

CGはちょっと残念なできだったけれど、ここに受信料の多くを注ぎ込まれては強制的に受信料を徴収されている国民の中には納得がいかない人も多くなりそうなので、諦めるしかないだろう。

全体としては、三谷幸喜脚本としてはほどほどに良い部類で、75点ぐらいではないか。ただ、それは役者の演技に助けられた部分が少なくない。まぁ、完全にアテガキなので、役者と、脚本家と、どちらの功績かと言われると厳密には決められないのだが。

トータルで言えば、もともと三谷脚本はそれほど評価していないので(とはいえ、日本は脚本家の層が非常に薄いので、三谷幸喜よりも明らかに腕が上の脚本家は藤本有紀とか、野田秀樹とか、本当に限られているのだが)、こんなもんかな、という感じだった。

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