2017年02月02日

日本はBrexitやトランプを批評している場合ではない

先日、知人の阪大教官がFacebookで「学生のレポートの日本語が酷い」と嘆いていた。

学生の文章が酷い理由は簡単で、子供の頃に良質なインプットを多くしていないからである。「ら抜き」も酷い文章表現の一例で、こうした表現をしてしまうのは、ちゃんとした日本語の感覚が身についていないからだ。これは音楽でいうところの「絶対音感」が欠落していることに該当する。大学生になってこの状態を意識的に改善するのはおそらく非常に難しい作業だろう。それは、第二外国語の感覚を非帰国子女が身につけにくいのと同じである。本来、言語は頭で考えるのではなく、感じて、反射して発せられるものだ。

#ドラゴンも、オビ=ワンも、"Don't think, feel!"と言っている。

文科省の教育方針の問題もあるだろうが、おそらく親がテレビ世代になってきていて、親に読書の習慣がないのだろう。親の背中を見て子供は育つ。幸いなことに、僕たちが子供の時代には、読書が娯楽の王様だった。僕の家にはサトウサンペイ氏に書いていただいた色紙が貼ってあったのだが、そこには「テレビを見るより本を読め」と書かれていた。金言である。

大学で日本語の再教育をするのは馬鹿らしい話だが、まともな日本語もできないのに卒業させてしまっては大学の資格がない。大学教官には気の毒な話だが、大学では、本筋とは異なる『日本語教育』も施される必要があるのだろう。

余談だが、僕の感覚からすると、伊坂幸太郎はリズム感の欠如したプロの代表で、彼の作品を読んでいると気持ち悪くて仕方がない。しかし、この感覚を理解してくれる人は本当にごくごくわずかである。というか、これまでに一人しかいない。それはプロの編集者だった。逆にリズム感の良いプロの代表は宮部みゆきだと思っている。字幕作家の松浦美奈もとても良いと思う。ただ、この辺は僕の感覚が正しいのか、単に好みなのか、正確にはわからない。

さて、話を元に戻す。先日、新聞に言語学者金田一秀穂さんのら抜き言葉に対する見解が載った時、

論点 「ら抜き」言葉、多数派に
http://mainichi.jp/articles/20170113/ddm/004/070/010000c

僕ははてブでこういうコメントをつけた。
日本人の過半数がバカになったってことじゃないの?特に、日本が、日本が、と連呼している自民党の政治家が使っていると、本当にバカだな、と思うよ。

この記事に対してつけられたはてブのコメントは、当然のようにら抜きを肯定するものが主流だったのだが、英国のEU離脱にしても、米国のトランプ選出やイスラム圏7カ国の入国禁止に関するExecutive Orderに対する反応にしても、韓国の釜山日本領事館前に設置された慰安婦像に対する姿勢にしても、過半数だからそれが正しいということではない。

#そもそも「正しさ」とは相対的なものなので、判断する人の立ち位置で変わってきてしまうものだが。

ら抜きを使わないということは、日本人に関する一つの指標なのだ。それは、「きちんと良質のインプットを重ねている」という指標である。小学生から中学生ぐらいまでに芥川や漱石や太宰や藤村といった作家たちの作品をかたっぱしから読んでいれば、少なくとも書き言葉としてら抜きを使う頻度は激減するはずだ。それをしていないから、ら抜きを書いても感覚的に問題ないのであって、つまりは教養が足りないということになる。

教養の足りない社会がどうなるかは、上に挙げた各国の状況を見れば明らかだ。今、米国に関して良く言われているのは、社会の分断がトランプ大統領を生み出したという話である。そして、NYやDCに住む知識層が、労働者層を無視してきたことが問題の根源にあると言われている。なぜ彼らは国内にも目を向けて、対話してこなかったのだ、と。日本も状況は米国や英国と五十歩百歩である。それは、何も中身のないアベノミクスを歓迎しているあたりからも容易に推察できる。この先に、明るい未来は多分存在しない。

「ら抜きを使うな」とは、文化の流動性を否定しているのではない。それでも、「ら抜きを使うな」という主張には反論が多い。その理由は、簡単に言ってしまえば、その反論の主の多くが、自らら抜きを使っていて、違和感を持たないからだと想像する。

では、こんな記事を読んだらどう思うのだろうか?

「Alexは女性名Alexandraの愛称である。ではAlexandraの愛称は何か?」4択問題で中学生の正答率45% その理由は?
https://togetter.com/li/1078386

このまとめの元記事は読売プレミアムに掲載されていて、有料記事なので一般の人は読むことができない。ざっくりとポイントになる部分を抜粋すると次のようになる。

戸田市立中6校の生徒計340人の基礎的な読解力を測るテストを実施した結果、4人に1人は問題文を正確に読めていなかった

問題によっては正答率が半分程度やそれ以下のケースもあった

普段のテストでも答えを何も書かない子たちから「問題で何を聞かれているか分からない」という声が出ていた

音真司氏が講師を務めた私大では、読書をする学生は少数で、3年でゼミに入るまで図書館に行ったことがない学生もいた

音氏は「試験やリポートではSNSや日記のような文章を書いてくる。文の構造を理解せず、考えも整理できない」と話す

(出典:2017年1月30日 読売新聞朝刊 読解力が危ない 問題文が理解できない)

多くの人は、「今時の中高生はこの程度のことも読解できないのか」と嘆くだろう。しかし、それは多くの人が、この問題を理解できる程度には教養を身につけたからに過ぎない。その「この程度のこともできないのか」は、僕からすればら抜きを書く人にも同じように適用される。

ら抜きを使っても平気な人は、「ら抜きで何が悪い」と開き直っている暇があるなら、もっと本を読んで、教養を身につけた方が良い。僕は、教養をベースにした見識こそが、各々が抱えている諸問題を越えて、彼らを明るい未来へ導くと信じている。日本語すらまともに使えないなら、それは無教養である。「無教養だって過半数ならそれが文化だ」と強弁するなら、英国のBrexitや米国のトランプ選出を全く笑えないのである。もちろん、未来も、英国や米国のそれと同じく、真っ暗闇である。