2017年08月03日

「先にお礼」という奇行についてのメモ

クラクラ(クラッシュ・オブ・クラン)という、かれこれ5年くらい運用されている対戦型ネットワークゲームがある。このゲーム、「クラン」というプレイヤーの集合体を形成して、お互いに戦力を提供しあって、助け合いながらクラン外のプレイヤーと対戦をしていくのが特色である。人間同士のやりとりなので、価値観の違いなどもあって、わりと頻繁にゲーム内で論争が起きて、離合集散を繰り返している(笑)。

僕などは基本的には自分から正体を明かすことはないのだが、聞かれれば答えないこともなく、別に秘密にすることもない。会話の流れで「ラーメン評論家ですよ」とか、「作家です」とか、答えるし、ツイッターのアカウントや、このブログのURLや、本名を隠すこともない。ただ、面倒臭いので、議論に参加することは稀である。何しろ、こちらは議論においてはプロ中のプロだし、日本語で議論するなら、ほぼ負けない自信がある。ネット空間でのトラブルの経験も豊富で、かつ、一度敵とみなしたら再起不能なまでに徹底的に叩くのはこのブログの読者のみなさんがご存知の通りである。とはいえ、僕も大人なので(苦笑)、のべつ幕なく喧嘩するわけでもなく、相手を見て、自分より立場の弱い人間にはよっぽどのことがない限りスルーするようにしている。

#立場が強ければ、その分強く叩く。例えば数年前にサンヨーを相手にブログで論陣をはり、30億円のリコールに導いたりはした。

さて、そんな穏健派(笑)の僕だが、久しぶりにこのクラクラの中のちょっとしたトラブルの中心人物となってしまったので、その概要を書いておく。もちろん、本当に些細なことで、トラブル自体はブログに書くようなことでもないのだが、ことが日本人的気質によるところなので、メモ程度に書いておこうと思った次第である。

と、前置きが長くなったのだが、話はわりと単純である。このクラクラのクランの内部では、自分が作った兵隊を同じクランの人間に提供することができる。この際、お礼をいうのが多くのクランの中で通例になっている(お礼が不要なクランも存在する)。この、お礼の作法についてである。

戦力のやりとりにあたっては、次のような手順を踏むのだが、

(1)Aさんが「何か戦力をください」と表明する
(2)それを読んだ他のクランのメンバー(複数の場合もあり)が戦力を提供する

通常であれば、Aさんは誰かから戦力をもらった時点で、提供してくれた人にお礼を言うはずである。ところが、このゲーム、戦力をもらった時にゲーム画面を注視していないと、その戦力を誰がくれたのかがわからなくなる。なので、僕は大抵誰がくれたのかを認識できず(誰がくれたのかはわからないので)、「ありがとうございます」とだけ書くようにしている。もちろん、誰が支援してくれたのかがわかる場合はその人宛でお礼をするのだが、大抵の場合、誰がくれたのかはわからないのだ。

さて、こうやって戦力をくれた誰かにお礼を書く人間がいる一方で、「先にお礼」をする人たちがいる。誰がくれるのかはわからないが、将来提供してくれるであろう人に対して、もらう前にお礼を書いてしまうのだ。「援軍お願いします。先にありがとうございます」という感じで。

僕は、この行動に対して強い違和感を持つ。お礼は、あくまでも特定の誰かの行動や気持ちに対して贈られるべき個人的な言葉や態度であって、因果関係がもっとも重要である。誰の、どんな行動かもわからないうちにお礼を書くなどと言うのは文字どおり本末転倒だと思う。お礼の相手がいない以上、そのお礼は発言者のみの一方的な行動で、発言者の自己満足、他人がやるから自分もやるという思考停止、感謝の押し売り、形だけでもやっておけばという形式主義ぐらいしか、行動原理が見当たらない。僕が知る限り、この「先にお礼」はクラクラという、超メジャーでもないゲームの中だけの習慣なので、おそらくは「他人がやるから・・・」が主たる行動原理になっているのだろう。ともあれ、「先にお礼」という行動は、お礼の形をとっておきながら、礼儀(人間関係や社会生活の秩序を維持するために人が守るべき行動様式。特に、敬意を表す作法)とは程遠い行動だと思う。

ということで、他人がこれをやっていても「変なの」と思いつつ黙っていたのだが、先日、突然この「先にお礼」を強制する旨の御達しが、僕の所属するクランであった。他人の奇行は別に気に留めないが、自分でやるのは真っ平御免なので、そのクランにはさようならしようと思ったのだが、メンバーの数名から引きとめられて今に至っている。

僕は日本的な習慣に対して思考停止している日本社会が嫌いで米国に逃げ出した人間だ。以前の事例だと、東工大スキー部OB会を脱会したのもそれが原因である(なお、その時はOB会が現役部員の支援を目的にお金を集めた時、「支援の方法はいろいろな形があって、OBはそれぞれに自分のやりたい支援をするべきだ。その方法について、画一的な方法を強制されるのは迷惑でしかない」と伝えて脱会した。当時は、僕はスキー用品を販売していたので、マテリアルから消耗品まで、市場価格よりも安い価格で提供していたし、合宿に参加して、ビデオ撮りやポール・セットを手伝ったりしていた)。

日本人の悪いところは、みんなで同じことをしようと圧力をかけたがるところだ。その結果、各人の多様性は失われ、行動は低いレベルで統一される。クラクラなら「お礼さえ書いておけば良い」というマインドが醸成されるし、東工大スキー部なら「OBは金さえ出しておけば良い」となる。幸いにして、米国ではこういうマインドは希薄だ。それぞれが自分で考えて、自分がベストだと思う行動をする色合いが濃い。これは農耕民族と狩猟民族の違いなのかもしれない。ともあれ、僕はそんな日本文化が全く好きになれないので、米国生活が非常に気に入っている。

「お礼」は、それを贈る対象(何かを提供してくれた人)に気持ちが伝わることこそが重要である。僕は、そのゲームの中では、僕なりの感謝の気持ちを行動で示してきたはずだ。おそらく、そういった行動や、その行動の背後に存在する感謝の意を、汲み取ることができない人間がいるのだろう。そして、その点では、僕に非がある。もっとわかりやすい行動をとるべきなのだろう。でも、そのわかりやすい行動が「先にお礼」であるならば、僕は今のクランを去るだけだ。それは、日本を逃げ出すよりもずっと容易いことである。