2018年05月21日

かぐや姫の物語 二度目

劇場での鑑賞に続いて、自宅で二度目の鑑賞。

一度目ではちょっと明確でないように感じたかぐや姫の罪と罰はちゃんと明確だった。4年前の自分に「お前は何を観ていたんだ?」と言ってやりたい。地球に生きる地球人と、月に生きる月の人との対比によって、地球、特に日本に生きている素晴らしさを浮き彫りにすると同時に、その地球人にも汚いところがあることを描き、それゆえに罰を受けることとなるかぐや姫を静かに、ときに激しく描いていた。

自然に生きたいだけのかぐや姫は、やがて人間たち、特に日本人たちの古いしきたりによって、矯正されていく。さらには、虚栄、虚言、虚勢、さまざまな嘘を見せつけられる。最後には強大な権力によってねじ伏せられそうになる。そして、その結果、地球人として生きることを捨てる。喜怒哀楽のない、しかし安定した月の世界の住民であることを願ってしまう。

全体を俯瞰すると、ほとんどの男性は悪で、ほとんどの女性は善として描かれているのが印象的だった。平安時代はもちろんとして、現在の日本社会も例えば米国と比較すると女性差別が酷い社会なので、それを指摘したい部分もあったのかもしれない。

とはいえ、最後にかぐや姫は地球への愛着を示す。そうすることによって、地球の生活を肯定している。地球で、喜怒哀楽がありながら、自然と親しんで、思うように生きられたら、それが一番素晴らしいということかもしれない。それは、ナウシカやラピュタを含め、ジブリが一貫して提示してきた価値観だろう。

何にしても、僕たちは全てを忘れてしまう便利な月の衣を持っていない。となれば、どう生きたら良いのか、その選択肢は3つしかない。所属している社会を変えるか、住んでいる場所を変えるか、諦めて現状を受けいれるかである。

僕が米国に来て2年。わかったのは、日本が年齢、性別、人種などによる差別が氾濫する社会だということだ。高畑勲監督は、この社会をどうしたかったのだろうか。かぐや姫は、周囲の人間たちの圧力に負けて、自由を捨て、最後は記憶までを含めて全てを忘れて月へ行ってしまった。彼女を社会が排除したのではない。社会が彼女に捨てられたのだ。

楽しいおとぎ話で終わる宮崎アニメとは違った世界がここには存在する。アニメーションに、ピクサーでは絶対にできない表現を持ち込んだ。これだけでも素晴らしいが、これは手段の一つでしかない。そこで表現されていることを過去のおとぎ話としてではなく、現実の問題としてとらえる想像力が必要なのだと思う。

今更だが、高畑勲監督を失ったことが残念でならない。