2018年12月08日

父の思い出

子供の頃から記憶力が悪い。単純な記憶が苦手で、小学校の頃から社会科は苦手科目だった。大学受験でも記憶することの多い化学と英語は苦手科目だった。記憶が苦手なのは今も同じで、毎日色々なことを忘れていく。昨日までニューヨークにいたのだが、ニューヨークで観たことのあるフェルメールはなんだったのか思い出せないし、10年ほど前にニューヨークに行った際に観たはずの「オペラ座の怪人」は、今回観てもまるで初見のような気持ちで観ることができた。だから、こうしてメモ書きがわりに、毎日の生活をブログに書いている。

これからも、僕は色々なことを忘れていく。その前に、焚き火の残りカスのような父の記憶を文章にしておく。

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子供の頃はもちろん、最近になっても、時々父の思い出について質問される。残念ながら、ほとんどの父に関する記憶が僕にはない。

父は僕が小学校1年生の6月に病死した。入院してから2ヶ月の闘病だったので、あっという間に死んでしまった。僕が父に関して記憶していることは、どこかのぶどう園に立ち寄ったとき、後部座席に座っていた僕が、車から降りて車のドアを閉めようとして、僕に続いて降りようと頭を出した父の頭を、車のドアでしこたま打ってしまい、痛そうに頭を押さえていたことである。どこだったのかはさっぱり記憶にないのだが、おそらくは上高地あたりからの帰り道で、甲府周辺のぶどう園に寄ったのだと思う。

父は急性骨髄性白血病だったのだが、当時は病気の原因がわからなかった。父は「感染しては困るから病院へは連れて来るな」と言っていたらしく、僕は病院へはあまり行かなかった。

父が死んだ時、親戚や知人に連れられて病院へ行った。病室へ向かうエレベーターの中で、ひさゆきさん(祖父の家に下宿していた人)に「パパ、死んじゃったんだぞ」と言われたことと、病室で父の死に顔を見た後、病室のそばにあった面会スペースでいとこのゆーちゃんとはさみ将棋をしたことは覚えている。そのとき、ゆーちゃんから「いっくんは男の子だから泣いちゃダメだよ」と言われて、それまでは「死」の意味がわからずにいたのに、なんだか悲しくなってちょっと涙を流したはずである。でも、涙の味までは覚えていない。

元住吉の病院へお見舞いに行った帰り道、駅に沿った商店街にあった本屋で手塚治虫の「サンダーマスク」を買ってもらったような気がするのだが、お見舞いに行ったとすれば昭和47年の春から初夏のはずで、単行本はもう少しあとに発売されているようだから、齟齬がある。今となっては詳細は不明である。

これらが、僕の人間としての最初の記憶である。これ以前は、何もない。

父の死は45年も前の話である。父はみんなの思い出の中でだけ生きていて、父を覚えている人間の数は減る一方だ。そして、多分、あと30年もすると、父を記憶している人間は地球上から消滅する。その時、父の存在が完全に消えてしまわないように、ここに、父、元木松代のことを書いておくことにした。このブログが残っている限り、父が完全に消えてしまうことはない。