突然の異動でエクセル自習命じられ まじめに働いたのに
https://www.asahi.com/articles/ASP9B4SB7P80UPQJ00J.html
以下、少し引用してみる。
横浜駅の近くにあるビルの一室。日立製作所の系列会社に勤める50代女性は、むなしさを押し殺してパソコンに向き合っていた。
上司から命じられているのは、表計算ソフト「エクセル」の自習だ。テキストを見てダミーの図や表をつくり、計算をくり返す。
僕は有料部分は読んでないのだが、無料部分だけを読んでみても、「この人がかわいそう」と感じる人と、「会社も大変だな」と感じる人と二通りいると思う。僕は後者だ。
書かれていることは、いわゆる「追い出し部屋」の様子である。
会社で活躍の場をなくした人は、組織にとってはがん細胞なので、取り除かないと現場の士気に関わってくる。「がん細胞とはひどい」と感じるかもしれないが、存在にポジティブな効果が何もなくて、若手社員が「あの人は何もできないのになぜ高給取りなのだ」と感じてしまうなら、存在自体がネガティブなのである。
2年前から日本でも注目されている人に、台湾のデジタル担当政務委員(大臣)のオードリー・タンがいる。彼が活躍している姿を見て、「日本のIT担当は年寄りばかりで使い物にならない。台湾が羨ましい」と考える人も少なくないと思うのだが、若者が活躍できる社会、能力のある人が正当に評価される社会は、すなわち年功序列ではない社会である。オードリー・タンが活躍できる裏で、椅子を奪われた先輩が必ず存在する。実力主義を羨ましく思うなら、同時に年功序列を否定する必要がある。オードリー・タンを羨ましく思うことと、日立の追い出し部屋の人を単にかわいそうと思うことは両立しない。
ところで、冒頭の記事に書かれているようなことは特に新しいことでもない。数日前にサントリーの社長が45歳定年制の導入を提言して炎上していたので多くの日本人はまだ現実を知らないのかもしれないが、日本型の年功序列は、一流企業においてはもうだいぶ前から崩れてきていた。10年前でも、金融業界では40代中頃になると「黄昏研修」という研修が始まって、活躍できなくなった労働力が円滑に次の職場へ移っていけるように配慮されていた。僕もそういう研修をちょっと手伝って、ベンチャーの社長を紹介したこともある。そのとき、「日本の会社はめちゃくちゃ親切だな」と感じたものである。
冒頭の記事は、有料部分に何が書いてあるのか不明だが、無料部分だけを読むと、「この人は会社の黄昏研修を拒否して、会社にしがみついちゃったんだろうな」と考えてしまう。もちろん日立がなんの配慮もなく突然「出て行け」と言った可能性もなくはないのだが、僕の感覚では、その可能性はすごく低いと思う。
これも何度か書いてきたことだが、僕は三菱総研時代、会社の副社長に「今の仕事は自分のスキルアップにつながらない。人材の能力向上をどう考えているのか」と訴えて、理研に出向させてもらい、ゲノム科学の最先端のプロジェクトに事務方として参加し、その知識と経験をもとに経産省生物化学産業課へ課長補佐として転職した。当時から考えていたことは、仕事を通じてどうやって自分がスキルアップするかである。必要とされる場所へ行って、不要になれば去る。その際、現場できちんとスキルアップしていなければ時間と経験が無駄になる。これはあまり書いたことがないのだが、経産省が決まる直前まで、野村総研への転職が決まりかけていた。野村総研をお断りしたのは、給料よりも中央官庁で習得できる知識、能力、人脈を優先したからだ。実際、それらは今になってもきちんと役に立っている。
日立のような一流企業でリーダーとして活躍していくことは並大抵ではない。特に年次があがっていけば、要求される能力も増えていく。だからこそ、高給取りなのだ。そこで期待される能力を発揮できなければ、給料を下げるか、出ていくよりない。
ここで残念なのは、日本には「ハイリスクハイリターンの有期雇用」と「ローリスクローリターンの無期雇用」という考え方がないことである。総合職の全てが「ローリスクハイリターン」では会社はまわっていかない。だから、終身雇用だと思っていた人は時として強制的に会社を去らねばならなくなる。「会社とは、自分が相応の成果を提供できなくなれば去るもの」という認識が現場で十分に共有されていないのだろう。
記事のように会社にしがみつく人がいると、会社も当人も不幸である。どんなに頑張ったところで、この人が本社の現場で活躍できるときは来ないだろう。しがみつくのは自由だと思うのだが、そのメリットはほとんど存在しない。
そういう意味で、サントリーの社長の提言はとても親切だ。「この会社に生涯ポストがあると思うな。残るにはそれなりの能力が要求される。45歳までに、他所でも活躍できる能力を身につけろ」ということである。これなら、将来「こんなはずではなかった」と会社にしがみつこうとする人がいても、「お前は今さら何を言っているのだ?」ということになる。僕が若ければ、こういう会社に就職したい。
会社でまじめに働いていても、それだけではだめなのだ。