僕の父は僕が6歳だった4月に白血病になり、元住吉の関東労災病院へ入院した。母がつきっきりで看病にあたるため、僕は母の姉夫婦にあずけられることになった。そういうわけで入学からわずか一週間で鴨居小学校1年6組から転校することになり、津田小学校の1年1組になった。1年生の時の鴨居小学校の記憶は全くない。叔母の家ではみんなが大事にしてくれたので、何の不自由もなく暮らすことができた。
父は2ヶ月の闘病の末に亡くなった。白血病は今と違い不治の病だったので運が悪かった。
僕の記憶の最も古いもののいくつかは、父が亡くなった日に親戚に連れられて乗った車の中と、関東労災病院のエレベーターの中で祖父から「お父さん、死んじゃったんだぞ」と言われたことと、病室の壁に寄りかかって号泣している母と、うつるかもしれないからと病室から出されて、待合室でいとことハサミ将棋をしたこと、あとは貧乏長屋が数軒集まって形成された商店街の中の自宅アパートに雨の中大勢の日産自動車の社員たちが喪服で集まってきてくれて、お休みだった八百屋さんのシャッターに背を向けてみんなが並んでいたことだ。人は誰でも自分の人生のスタートを知らないけれど、最初の記憶を実質的なスタート地点とするなら、僕は父の死から人生を走り始めたと言っても良い。
生きていた父の記憶は唯一、長野かどこかへの旅行の帰り道のことである。子供のころ、親戚と良く上高地に行っていたので、この記憶も上高地からの帰り道に甲府あたりに寄り道したことについてなのかもしれない。少し暗くなった時間にどこかのぶどう園にぶどう狩りに立ち寄って、みんなで車から降りる際に、僕が車のドアを勢いよく閉めたら、ちょうどあとから降りようとしていた父の頭をドアが強打してしまい、頭を抱えていたことを覚えている。これは写真が残っているわけではなく、他人から教えてもらったこともないので、おそらくオリジナルの記憶だと思う。
父が亡くなってから今日まで、親戚が何度も「何か覚えてないの?」「声ぐらいはわかるんじゃないの?」と訊いたのだが、残念ながらこれ以外は何もない。親戚の人たちは僕が父のことをほとんど覚えていないので、僕と父を不憫に思うようだ。僕の父について、一番知らないのが僕なのだ。
僕は父の死からずっと「片親で可哀想」と言われてきたけれど、いなければいないでどうとでもなるもので、普通に大学に通い、就職し、結婚して、今は5歳の子供がいる。他の家にあって僕の家にないのは父の日と父の誕生日パーティだけで、代わりに父の命日があった。
自分が、父が亡くなった38歳になった時は「この辺で自分も大病をするのでは」という不安が頭をかすめたけれど、実際には何の問題もなくその年齢をクリアした。そして、その時から父は僕より年下になった。それから20年近くが経って、僕は56歳で、父は永遠に38歳のままだ。
僕が父から受け取ったバトンは一体何だったのかなと思う。記憶に残っているものはほとんどないけれど、三つ子の魂百までという言葉もあるので、記憶の外で、色々と受け継いだものがあるのかもしれない。何を受け取ったのかはわからないし、僕が自分の子供に何を渡せるのかもわからないけれど、記憶にはない何かを僕なりに大事にしたいと思っている。そして、僕の子供が「元木一朗って、誰?」と困らないように、テキスト、写真、動画などをなるべく多く残すようにしている。
僕は父のことをどう呼んでいたのかも覚えていないのだが、父について僕が覚えていることをここに書いておいた。これで僕が忘れることはあっても、ブログが残っている限り世界から失われることはない。父が生きていた標を残すことができて、僕は少し安心できた。
6月24日で父、元木松代さんが死んでちょうど50年になる。もしかしたら、僕は父から「運」をもらったのかもしれない。
後記
これを書き終えてから思い出したけれど、東本郷町497番地の家の2階の窓から夕陽を見た記憶がある。その時は八百屋さん、床屋さん、文房具屋さんなどが入ったアパートがまだ建ってなくて、東観寺までは一面が畑で、その向こうに沈む夕陽を見ることができた。父の葬儀の日には八百屋さんのアパートが建っていて夕陽は見えなくなっていたはずなので、夕陽を見た記憶は父の死よりもさらに古い記憶のはずである。なお、僕が父と住んでいたアパートは取り壊されて訪問看護ステーションになっている。
もうひとつ、これも父の死後の記憶だと思うのだが、上高地あたりの観光地の帰り道、左側ががけの山道を車で走っていて、ラジオでは日本シリーズの野球中継をしていた。金田の胴上げがあった記憶がある。雨上がりで、谷に馬鹿でかい虹がかかったことを覚えている。