2015年07月15日

安保法案についての雑感

僕は役人時代にベンチャー企業の育成を担当していたので、今でも時々ベンチャーとか、ベンチャー人材の育成について書いたり、講義をしたりすることがあるのですが、その時、起業にあたって一番大事なのは「企業の理念を明確化し、関係者でそれを共有すること」だと言っています。このブログにも過去に書いたかも知れませんが、その「理念」がなぜ必要かというと、経営していく中で生じる様々な問題について議論するとき、立ち返るべき基本だからです。その理念に反した経営方針は否定されるべきで、「理念」とは、会社にとってのまさに憲法であるわけです。

さて、今日、衆議院の特別委員会で強行採決が行われた安保関連法案です。この法案がなぜ筋悪かというと、上のベンチャー企業の例でたとえるなら、「新商品Aの扱いを開始したいのだが、その商品は会社の経営理念にはあわないので、経営理念の読み方を変えよう」というものだからです。本当なら、まずその商品を扱うかどうかを検討すべきなのに、最初から扱うことを前提としているのです。仮に検討すれば、扱えないのは明白なのです。もうちょっと具体的に書いてみましょう。

「子供たちに、科学についてもっとしっかり勉強してもらおう」という会社を作ったとします。このセンテンスがそのまま会社の基本理念です。会社設立後色々な活動を続けているうちに、資金繰りが苦しくなったとします。そのとき、外部から「うちの会社が開発した『何にでも効く健康食品』を販売しませんか?」と持ちかけられたとします。ここで、まっとうな会社なら、「うちに会社は、そういう『何にでも効く』などといった商品、すなわち何の役にも立たない健康食品についてきちんと科学的に検証できる人間を育てる教育を目指している。いくら儲かりそうでも理念に反しているので、これはだめだ」となるはずです。しかし、そうは言っても、このままでは会社が倒産してしまうかもしれません。それは困る、背に腹はかえられない、ということであれば、仕方なく、基本理念を変更することになるでしょう。「子供たちを応援する」ならどうだ、健康食品の販売を通じて、社会の仕組みを知ってもらうのは、きっとプラスになるはずだ、などという理屈は立つかも知れません。しかし、それだと、今度は社員の合意が得られるかどうかわかりません。多くの社員は、会社の理念に共感して入社したはずです。基本理念の変更は、会社を実質的に潰してしまうことになるかも知れません。

そこで出てくる最後の手段は、理念の文言はそのままに、怪しい健康食品を販売する方法を探すことになります。これはいわば理念を骨抜きにすることです。形式だけを取り繕って、実際は理念を形骸化するわけです。「そうだ、その健康食品の有効性をでっち上げてしまえば良いんだ。今なら、査読なしでも掲載してくれる論文誌がいくらでもある。適当に実験して、必要ならデータをいじって論文を載せ、特許を申請して、俺達が白衣を来て「何にでも効きます」と語れば良いんだ!」となるわけです。まさに、インチキです。

さて、話を安保法案に戻します。今、安倍政権が進めているやり口は一番最後のインチキで、これが一番筋悪なのは猿以外なら分かりそうなものです。やるべきことは基本理念を貫くこと、すなわち憲法を厳密に運用することです。もちろん、憲法が長年にわたる内外の情勢変化から、時代に合わなくなってしまう可能性もあります。その場合は、きちんと憲法を改正する手段があって、その権利は日本国民にあるのですから、その手続きに従って憲法を改正するべきです。

非武装中立という基本理念はとても立派だと思いますが、現実問題として、自衛隊や米軍の支援なしに日本の平和を維持できる、領海や領空の侵犯を牽制できると考えている人は少ないと思います。そうした現実に直面して、憲法に固執するも良し、改正するも良し。しかし、憲法解釈を政治的に変更して、憲法を骨抜きにするのはダメなはずです。

これまでもすでに骨抜きにされ形骸化していた平和憲法ですが、今の国会では、さらにこの解釈を一部の政治家達が捻じ曲げようとしています。とはいえ、その最初の一歩は今回ではありません。今回の議論では「解釈変更がエスカレートすると歯止めが効かなくなる」という主旨の主張が聞こえてくるのですが、最初の一歩は自衛隊を合憲としたことです。このステップは、実は今回のステップよりもずっとドラスティックなものでした。そして、その自衛隊を合憲とするやり方の延長線上に今の安倍内閣があるということを国民は認識しておくべきです。この意味では、共産党以外の全ての政治家、そしてその背後にいる国民に責任があるのです。ものごとを曖昧なままにしてなぁなぁで進めていくのは良くも悪くも日本人の特質ですが、それが許される場面は限定的であるべきです。国のありようを規定するのが憲法ですから、その内容が政府の解釈によって実質的に変わってしまうのでは困ります。

このように、暴走する安倍内閣を生んだのは我々国民自身です。だからこそ、私達には彼らを葬る責任があります。

国の形を最終的に決めるのは国民自身であって、政治家ではありません。ましてや、今の安倍政権は安保法案を成立させるために実施された選挙で選ばれた人達ではありません。個別の法律について一々選挙をやるわけにはいきませんが、今回の安保法案に対して国民の支持があるとは到底思えませんし、国のありようを決めるとても大事な案件なのです。

安倍首相は今日の答弁で

残念ながらまだ国民の理解が進んでいる状況ではない。国民の理解が進むようにしていきたい。


と述べていましたが、実際には、理解は進んでいると思います。安倍首相の思い通りの結論に至らないことを「理解が進んでいない」と述べているわけで、「理解されれば賛成してもらえる」と考えているなら、それは重大な勘違いです。実際には話せば話すほど、議論すればするほど、反対されてしまう状況だと思います。

とはいえ、今回の衆議院での強行採決は違法行為ではありません。正当な選挙で選ばれた政治家達が、正当な手続きによって実施したのです。強行採決が絶対悪ということではないですし、実際、民主党政権化では鳩山、菅、野田政権で合計21回の強行採決をしています。問題なのは、強行採決ではなく、何を採決したかです。大多数の憲法学者達がこぞって違憲と判断した法案に賛成したことこそが問題なのです。

安保法案に反対だった国民にできることは、第一に、今回の強行採決を次の選挙まで忘れないこと、第二に、安保法案に賛成した政治家に投票しないことです。

安倍首相の今日の答弁で国民の理解が十分ではないとの認識を示しましたが、その状況においての強行採決の裏には、「きちんと判断できるのは我々で、国民はそれに従っておけば良い」「どうせ、すぐに忘れてしまう」という考えがあると思います。日の出テレビで3年間、自民党の政治家たちと一緒に活動していた僕には彼らの思惑がわかります。「どうせ忘れちゃうから大丈夫」です。実際、原発への対応を見ていても、秘密保護法への対応を見ていても、日本国民は喉元過ぎれば熱さを忘れるところがあるので、放っておけば安倍首相の思い通りになるでしょう。だから、反対派は、絶対に今日の強行採決を忘れてはなりません。

ただ、ここでもうひとつ、大きな問題があります。それは、自民党の対抗となりうる「まともな政党」がなかなか見当たらないことです。今の自公連立政権も、この「他にいない」という理屈から成立しました。それでも、ほとんどの憲法学者が違憲とするような法案を強行採決するような政党よりはマシでしょう。目くそ鼻くそではありません。民主や維新が目くそや鼻くそであれば、自民党と公明党は、ウンコか、もしくは放射性廃棄物のような政治家の集団です。

憲法について真剣に議論していきましょう。でも、その前にまずは安倍内閣を葬り去りましょう。そのためには、次の選挙まで、絶対に忘れてはいけません。

参考動画
  

2008年08月28日

消えてしまった星のこと

アフガニスタンでNGOのスタッフ、伊藤さんが拉致され、射殺された。

伊藤さんは、語学もだめ、農業に関する経験や知識も不足していると自覚しながらも、アフガニスタンを緑豊かな国に戻す手伝いをしたい、とアフガニスタンに行き、そこでアフガニスタンの人とともに働いていたようだ。

高い志を持った人が、その途中で、他者の暴力によって一生を終えさせられてしまうというのが世界の現実なのだろう。

こうしたニュースに触れても、「自分も誰かの役に立ちたい。でも、何をしたらいいかはわからないけれど」「誰かが伊藤さんの遺志を継いでくれれば」ぐらいしか考えられないのが僕を始めとした日本人の大多数なんだと思う。

当たり前だけど、日本の政府高官は遺憾の意を表明するぐらいが精一杯。一方でタリバンの報道官は「このNGOが住民の役に立っていたことは知っている。だが、住民に西洋文化を植え付けようとするスパイだ。日本のように部隊を駐留していない国の援助団体でも、われわれは殺害する」と述べている。こうなってしまうと、「じゃぁ、やめとけ」ということになる。

しかし、それでもアフガニスタンには、貧困で苦しむ大勢の生活者がいる。

僕達のまわりにコンビニやハンバーガーショップが存在するのと同じようなレベルで、生活の中に普通に戦争が存在する国に、貧困で苦しんでいる人たちがいる。そうした現実にあって、死を覚悟しながら、その中に希望を見出そうとした「地上の星」がひとつ消えてしまった。

これまでの数日間、何人かのこの件について軽く話をしてみたが、どうやら、日本人的な感覚では「誰に責任があるのか」というところになりがちのようだ。しかし、亡くなった伊藤さんは、恐らく「誰が悪いのか」ということには興味がなかったはず。アフガニスタンに貧困がある理由にもそれほど興味がなかったのではないか。「貧困に苦しむ人が存在するから、そこに行って何かをしたい」という使命感。これが人の何十倍も強かったからこそ、死の恐怖に負けず、現地で働いたんだと思う。

僕はヘタレだから、自分の命を危険にさらしてまでアフガニスタンに行って何かをするなんていうことはできない。ただただ、伊藤さんの可能性が暴力によって根こそぎ刈り取られてしまったことを残念に思うだけである。

世の中にはきっと伊藤さんのような地上の星がたくさん存在しているんだと思う。彼らの価値は北島選手やソフトボール日本代表に比較して何ら遜色がない。

別に、そういう人たちにもっと光を当てるべきだとか、国民栄誉賞にふさわしいとか、そういうことを言いたいのではない。僕達は、そういった日本人が存在しているということをきちんと胸に刻んで、その上で自分達のできることをやっていくべきだと思う。何しろ、伊藤さんのことを忘れてしまってはいけないと思う。このブログでは滅多にこの手のネタは書かないのだけれど、自分にとっての備忘録として書いておく。  

2005年02月15日

プラム君へ

うちのプラムが今朝、死にました。  続きを読む
Posted by buu2 at 14:45Comments(6)TrackBack(1)日記

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