2023年06月24日

元木松代(まつしろ)さんのこと

僕の父は僕が6歳だった4月に白血病になり、元住吉の関東労災病院へ入院した。母がつきっきりで看病にあたるため、僕は母の姉夫婦にあずけられることになった。そういうわけで入学からわずか一週間で鴨居小学校1年6組から転校することになり、津田小学校の1年1組になった。1年生の時の鴨居小学校の記憶は全くない。叔母の家ではみんなが大事にしてくれたので、何の不自由もなく暮らすことができた。

父は2ヶ月の闘病の末に亡くなった。白血病は今と違い不治の病だったので運が悪かった。

僕の記憶の最も古いもののいくつかは、父が亡くなった日に親戚に連れられて乗った車の中と、関東労災病院のエレベーターの中で祖父から「お父さん、死んじゃったんだぞ」と言われたことと、病室の壁に寄りかかって号泣している母と、うつるかもしれないからと病室から出されて、待合室でいとことハサミ将棋をしたこと、あとは貧乏長屋が数軒集まって形成された商店街の中の自宅アパートに雨の中大勢の日産自動車の社員たちが喪服で集まってきてくれて、お休みだった八百屋さんのシャッターに背を向けてみんなが並んでいたことだ。人は誰でも自分の人生のスタートを知らないけれど、最初の記憶を実質的なスタート地点とするなら、僕は父の死から人生を走り始めたと言っても良い。

生きていた父の記憶は唯一、長野かどこかへの旅行の帰り道のことである。子供のころ、親戚と良く上高地に行っていたので、この記憶も上高地からの帰り道に甲府あたりに寄り道したことについてなのかもしれない。少し暗くなった時間にどこかのぶどう園にぶどう狩りに立ち寄って、みんなで車から降りる際に、僕が車のドアを勢いよく閉めたら、ちょうどあとから降りようとしていた父の頭をドアが強打してしまい、頭を抱えていたことを覚えている。これは写真が残っているわけではなく、他人から教えてもらったこともないので、おそらくオリジナルの記憶だと思う。

父が亡くなってから今日まで、親戚が何度も「何か覚えてないの?」「声ぐらいはわかるんじゃないの?」と訊いたのだが、残念ながらこれ以外は何もない。親戚の人たちは僕が父のことをほとんど覚えていないので、僕と父を不憫に思うようだ。僕の父について、一番知らないのが僕なのだ。

僕は父の死からずっと「片親で可哀想」と言われてきたけれど、いなければいないでどうとでもなるもので、普通に大学に通い、就職し、結婚して、今は5歳の子供がいる。他の家にあって僕の家にないのは父の日と父の誕生日パーティだけで、代わりに父の命日があった。

自分が、父が亡くなった38歳になった時は「この辺で自分も大病をするのでは」という不安が頭をかすめたけれど、実際には何の問題もなくその年齢をクリアした。そして、その時から父は僕より年下になった。それから20年近くが経って、僕は56歳で、父は永遠に38歳のままだ。

僕が父から受け取ったバトンは一体何だったのかなと思う。記憶に残っているものはほとんどないけれど、三つ子の魂百までという言葉もあるので、記憶の外で、色々と受け継いだものがあるのかもしれない。何を受け取ったのかはわからないし、僕が自分の子供に何を渡せるのかもわからないけれど、記憶にはない何かを僕なりに大事にしたいと思っている。そして、僕の子供が「元木一朗って、誰?」と困らないように、テキスト、写真、動画などをなるべく多く残すようにしている。

僕は父のことをどう呼んでいたのかも覚えていないのだが、父について僕が覚えていることをここに書いておいた。これで僕が忘れることはあっても、ブログが残っている限り世界から失われることはない。父が生きていた標を残すことができて、僕は少し安心できた。

6月24日で父、元木松代さんが死んでちょうど50年になる。もしかしたら、僕は父から「運」をもらったのかもしれない。


後記
これを書き終えてから思い出したけれど、東本郷町497番地の家の2階の窓から夕陽を見た記憶がある。その時は八百屋さん、床屋さん、文房具屋さんなどが入ったアパートがまだ建ってなくて、東観寺までは一面が畑で、その向こうに沈む夕陽を見ることができた。父の葬儀の日には八百屋さんのアパートが建っていて夕陽は見えなくなっていたはずなので、夕陽を見た記憶は父の死よりもさらに古い記憶のはずである。なお、僕が父と住んでいたアパートは取り壊されて訪問看護ステーションになっている。

もうひとつ、これも父の死後の記憶だと思うのだが、上高地あたりの観光地の帰り道、左側ががけの山道を車で走っていて、ラジオでは日本シリーズの野球中継をしていた。金田の胴上げがあった記憶がある。雨上がりで、谷に馬鹿でかい虹がかかったことを覚えている。  

Posted by buu2 at 09:59Comments(0)小説・エッセイ

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2018年12月08日

父の思い出

子供の頃から記憶力が悪い。単純な記憶が苦手で、小学校の頃から社会科は苦手科目だった。大学受験でも記憶することの多い化学と英語は苦手科目だった。記憶が苦手なのは今も同じで、毎日色々なことを忘れていく。昨日までニューヨークにいたのだが、ニューヨークで観たことのあるフェルメールはなんだったのか思い出せないし、10年ほど前にニューヨークに行った際に観たはずの「オペラ座の怪人」は、今回観てもまるで初見のような気持ちで観ることができた。だから、こうしてメモ書きがわりに、毎日の生活をブログに書いている。

これからも、僕は色々なことを忘れていく。その前に、焚き火の残りカスのような父の記憶を文章にしておく。

☆☆☆

子供の頃はもちろん、最近になっても、時々父の思い出について質問される。残念ながら、ほとんどの父に関する記憶が僕にはない。

父は僕が小学校1年生の6月に病死した。入院してから2ヶ月の闘病だったので、あっという間に死んでしまった。僕が父に関して記憶していることは、どこかのぶどう園に立ち寄ったとき、後部座席に座っていた僕が、車から降りて車のドアを閉めようとして、僕に続いて降りようと頭を出した父の頭を、車のドアでしこたま打ってしまい、痛そうに頭を押さえていたことである。どこだったのかはさっぱり記憶にないのだが、おそらくは上高地あたりからの帰り道で、甲府周辺のぶどう園に寄ったのだと思う。

父は急性骨髄性白血病だったのだが、当時は病気の原因がわからなかった。父は「感染しては困るから病院へは連れて来るな」と言っていたらしく、僕は病院へはあまり行かなかった。

父が死んだ時、親戚や知人に連れられて病院へ行った。病室へ向かうエレベーターの中で、ひさゆきさん(祖父の家に下宿していた人)に「パパ、死んじゃったんだぞ」と言われたことと、病室で父の死に顔を見た後、病室のそばにあった面会スペースでいとこのゆーちゃんとはさみ将棋をしたことは覚えている。そのとき、ゆーちゃんから「いっくんは男の子だから泣いちゃダメだよ」と言われて、それまでは「死」の意味がわからずにいたのに、なんだか悲しくなってちょっと涙を流したはずである。でも、涙の味までは覚えていない。

元住吉の病院へお見舞いに行った帰り道、駅に沿った商店街にあった本屋で手塚治虫の「サンダーマスク」を買ってもらったような気がするのだが、お見舞いに行ったとすれば昭和47年の春から初夏のはずで、単行本はもう少しあとに発売されているようだから、齟齬がある。今となっては詳細は不明である。

これらが、僕の人間としての最初の記憶である。これ以前は、何もない。

父の死は45年も前の話である。父はみんなの思い出の中でだけ生きていて、父を覚えている人間の数は減る一方だ。そして、多分、あと30年もすると、父を記憶している人間は地球上から消滅する。その時、父の存在が完全に消えてしまわないように、ここに、父、元木松代のことを書いておくことにした。このブログが残っている限り、父が完全に消えてしまうことはない。
  
Posted by buu2 at 14:12Comments(0)小説・エッセイ

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2018年10月17日

短編小説「空中分解」

某月某日 内閣府
課長から声がかかって、会議室に呼び出された。

「松井君、例の、なんとか村の件だけど、法制化についてタコ部屋(*註釈)を作ろうと思う。君はやりたくないだろ?」

と、お調子者の課長が切り出した。

「そうですねぇ。今、別件で手一杯ですし、小嶋あたりで作った方が良いんじゃないですか?」
「私も君にそこまで負担をかけるつもりはないんだよ。海賊版サイト対策検討会の委員候補をリストアップしてくれないかな」

なるほど、その件か。筋の悪そうなにおいがプンプンしてくる。

「座長は決まっているんですか?」
「決まってる」
「どなたでしょうか」
「秋大の大島さんと川栄さんだよ」

そういうことか。課長の考えにはすぐに察しがついた。

「共同座長ですね。では、お二人と相談して、話を進めますね」
「よろしく頼んだよ」

課長との話は10分もかからずに終了した。

註釈 役所では、法律を作るときに課長補佐、係長などで構成される専門の部屋を作る。これを「タコ部屋」と呼ぶ。面倒臭いので、みんな嫌がる。


某月某日 内閣府
「柏木、ちょっと良いかな?」
「ダメです」
「そうだよな。ちょっと、来てくれ」
「ダメだって言ってるのに・・・」

俺は柏木係長と打ち合わせスペースへ向かった。打ち合わせスペースといえば聞こえがいいが、パーティションを切ったスペースに机と椅子を4つ並べただけの空間である。

「昨日、課長から、海賊版サイト対策検討会の委員候補をリストアップしてくれと言われたんだよ」
「頑張ってください」
「いやいやいや、お前の力が必要なんだって」
「無理っすよ。今、島崎議員の立法の件で手一杯なんですから」
「そうはいっても、このままじゃ、違憲立法しちゃうことになるぞ。それでも良いのか?」
「私は関係ないですから」
「それが、そうとも言えないんだよ。どうせ検討会が始まれば、お前も事務局として名前を連ねることになるんだから」
「いやいや、やめてください。私はノータッチです」
「それは、俺が決める話だよ。どうせ関わるなら、早いうちに関わっておいた方が自分のためだろう?」
「相変わらず汚いですね、松井さん」

柏木は本気で腹を立てている。

「まぁな」
「それで、課長の腹づもりはどんな感じなんですか?」

しぶしぶ話に顔を突っ込んでくるあたりが良いやつだ。

「課長は渡辺ンゴとマブだから、当然法制側だよ」

渡辺ンゴという撒き餌をさっそく混ぜてみた。

「あれ?課長って、渡辺ンゴさんとマブなんですか?」

やはり、食いつきがいい。

「そりゃそうさ。まぁ、裏では色々ある仲だよ」
「そういえば、この間、課長に言われて社外での打ち合わせをセットしましたよ。あれが関係あるかも」
「相手は?」
「知りません。赤坂の、いつもの店をキープしました」
「いつのことだ?」

柏木はタブレットでスケジュールを調べている。

「えっと、サッカーの試合の日だったから、5日ですね」

ビンゴ。俺が課長から声をかけられた日の前日だ。これでストーリーははっきりした。座長、課長、渡辺ンゴはグルで、結論はブロッキングの法制化に間違いない。これをどう阻止するか。

「委員構成が勝負だな」
「法制化を妨害するんですか?」
「当たり前だろ?」
「そりゃそうか」
「早速、委員の候補をリストアップだな」
「頑張ってください」
「たのむよ、柏木ちゃん」

俺は柏木の肩に手をかけて、いつも以上に圧力をかける。

「それくらい、自分でやってくださいよ」
「じゃぁ、前田に頼もうかな」
「きったねぇなぁ。前田に頼んだら、作業が増えて俺のところに回ってくるじゃないっすか」
「だから、最初から柏木ちゃんに頼んでるだろ?」

柏木はあきらめ顔だ。

「どういう面子を集めるんですか?」
「指原さんに相談しよう」

某月某日 秋葉原大学大島研
「今度の検討会の委員候補をお持ちしました」
「あぁ、メールで送ってもらったのを見させてもらったよ」
「いかがでしょうか?」
「指原さん、山本さんあたりは、どうしてもいれないとダメかな?」
「そうですねぇ。あからさまに賛成派ばかりで固めても」
「まぁ、そりゃそうなんだがね。彼らは憲法遵守派だから、間違いなく反対に回るはずだよ」
「そこは、事務局でなんとか対応します。反対されても、報告書さえできてしまえば問題ないですから」
「そんなものかね?」
「議論したという事実が一番重要です。法制化自体は、検討会で進める必要はないですから」
「じゃぁ、私は、座長として議論を進め、報告書をとりまとめることにすれば良いんだね?」
「はい。よろしくお願いします」
「わかった。あとはよろしく頼むよ」
「わかりました」
「今日は、それだけ?」
「はい。お忙しいところ、ありがとうございました。また何かあればご連絡ください」
「あぁ、検討会のスケジュールについては早めに連絡してくれると助かるよ」
「わかりました。では、失礼します」

某月某日 内閣府
「検討会の委員名簿、課長の了承が取れたよ」
「良かったですね」
「検討会のメンバーの半分は反対派だ。もちろん課長は気がついていないが」
「これで検討会の紛糾は間違いなし」
「あとは、反対派にレクだな」
「何を打ち込みましょうか?」
「まず、早い段階での意見書の提出だな。賛同する委員は多ければ多いほど良い」
「了解」
「それから、法制化反対派の委員たちには、報告書のとりまとめに断固反対するように伝えておく必要がある」
「了解」
「あ、あと、もう一つ、頼まれてくれ」
「今度はなんですか?」

柏木はいつものように迷惑そうな顔をしている。

「クラウドフレアに関する情報を取りまとめておいてくれないか?」
「あぁ、その件なら、もう進めてます」
「さすがだな」
「俺たちは、事業者じゃなく、国民のことを考えて、行動する、でしょう?」
「柏木ちゃん、だーいすき」


#このエントリーはフィクションです。
#参考資料 空中分解…海賊版サイト対策検討会はなぜ迷走したか  
Posted by buu2 at 10:45Comments(0)小説・エッセイ

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2014年09月11日

特別超短編小説「ドリアン」

戦闘は熾烈を極めていた。鬱蒼と茂った木々の中からは、いつ敵が現れるかわからない。一週間前からは毒ガス攻撃も始まった。最後に味方の姿を見かけたのは5日も前だ。食料もそこをついた。このままでは、あと二日ももつまい。加えて、時々身動きも取れないような土砂降りに見舞われる。雨のたびに体は重くなり、数時間もじっとしていなくてはならない。島一曹の状況は絶望的といって良かった。

そろそろ夕方である。とにかく、食べ物が欲しい。ふんだんにあったはずの食料が、今は全く見当たらない。何かないか、と血眼になっていると、妙な臭いがする。決して良い匂いではない。むしろ、二度と嗅ぎたくないような悪臭である。しかし、同時に食料の気配もする。糞臭ともいうべき悪臭の発生源に向かって近づいていくと、そこには確かに食料があった。見た目はごちそうなのだが、悪臭を発生させているのもそれなのである。しかし、四の五の言っている場合ではない。このままでは餓死してしまう。島一曹は鼻をつまんで臭いを我慢しながら、その食料に飛びついた。うまいっ!島一曹は臭いのことなどすっかり忘れて、たっぷりと汁を吸った。

島一曹が子供の頃、ここは天国のような場所だった。それが、わずか二週間足らずの間に地獄と化した。この地獄を、敵は代々木公園と呼んでいるようだ。